Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

イシドルス『語源』翻訳 I. 1,2『学芸と技術について』『自由七科について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。Oroz Reta J. and Marcos Casqueroの西訳とIsidoro di Siviglia, Etimologie o origini, primo volume, a cura di Angelo Calastro Canale, UTET, 2004.の伊訳も参照した。

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

翻訳

1. 『学知と技術について』

Disciplina(学知, 学芸)はdiscere(学ぶこと)からその名を得ている1。それゆえscientia(知識)と呼ばれることもある。それはscire(知ること)がdiscere(学ぶこと)に由来してそのように呼ばれるからだ。なぜなら我々の誰もが学ぶことなしには、知ることはないからである。あるいはdisciplinaは完全に学ばれる(discitur plena)ことから、そのように呼ばれる2。技術(ars)は厳密な(artus)指示と規則からなることからそのように呼ばれる。ある人々はこの語はギリシア語のἀπό τῆς ἀρετῆς(徳によって)に由来していると言っている。ἀπό τῆς ἀρετῆςとはつまりa virtusであり、scientiaとも呼ばれていた3プラトンアリストテレスは技術と学知の間には次のような相違があるとした。技術は他のように起こり得るものに関わるものである。他方、学知は他のようには起こり得ないものに関わるものである4。それゆえ、正しい議論によってある物事が論じられる時、[その物事に関する知識は]学知となる。 もっともらしく思いなしに基づく物事が扱われる時、技術という名前で呼ばれることになる。

2. 『自由七科について』

自由学芸には七つの学科がある。

第一は文法学である。この学科は話すための技術(peritia)である。

第二は修辞学である。この学科は、雄弁の輝かしさと豊穣さゆえに、国家に関する議論でとりわけ必要であると考えられている5

第三は弁証論であり、論理学という別名がある。この学科は非常に精密な議論によって、偽であるものから真であるものを区別する6

第四は算術である。この学科は数の原理と分割についての内容を含んでいる7

第五は音楽である。この学科はcarmenとcantusからなる8

第六は幾何学である。この学科には大地の測定と測量が含まれている9

第七は天文学である。この学科には星の法則についての内容が含まれている。


  1. cf. アウグスティヌス『ソリロキア』2:11.
  2. カッシオドルス『綱要』2:3. "disciplina enim dicta est, quia discitur plena"
  3. カッシオドルス『綱要』2:3.
    "Ars vero dicta est, quod nos suis regulis artet atque con stringat: alii dicunt a Graecis hoc tractum esse vocabulum, apo tes aretes, id est, a virtute, quam diserti viri unuscuiusque rei scientiam vocant."
  4. アリストテレス『ニコマコス倫理学』第6巻3章、4章 (1139b-1140a).
  5. イシドルス『語源』翻訳 II-1 修辞学とその名称について - Asinus's blog
  6. イシドルス『語源』翻訳 II-22 弁証論について - Asinus's blog
  7. イシドルス『語源』翻訳 III 序文: 『数学について』 - Asinus's blog
    イシドルス『語源』翻訳 III-1, 2 『arithmeticaという名称について』『算術の創始者について』 - Asinus's blog
  8. Berney et al.: poems and songs, Reta&Marcos: esquemas metricos y cantos, Canale: carmi e canti. 語源III-15ではsonusとcantusからなるとしている。
  9. イシドルス『語源』翻訳 III-10 『幾何学の発見者と幾何学という名称について』 - Asinus's blog

イシドルス『語源』翻訳 XI. 2. 1-13『人間の一生について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。Oroz Reta J. and Marcos Casqueroの西訳とIsidoro di Siviglia, Etimologie o origini, primo volume, a cura di Angelo Calastro Canale, UTET, 2004.の伊訳も参照した。

人生の6つの段階の訳語については以下の論文の注63 (p.98)を参考にした。

アウグスティヌスの政治世界-2完-, 法学研究 54 (12), pp. 2094-2117, 1981.

アウグスティヌスの政治世界 (二・完) | CiNii Research

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

翻訳

人生には六つの段階がある、幼年期(infantia)、少年期(pueritia)、青年期(adolescentia)、成年期(juventus)、壮年期(gravitas)、老年期(senectus)である。

第一の段階である幼年期は、子供が生まれてから7歳までである。

第二の段階である少年期(pueritia)である。純粋(purus)であり、まだ生殖には適していない。この時期は14歳までである。

第三の青年期(adolescentia)は子をもうけることができるほど成熟(adultus)している。この時期は28歳までである。

第四の成年期はすべての時期の内で最も確固としている。この時期は50歳で終わる。

第五は年長(senior)の段階、つまり壮年期である。この段階は青年期から老年期への曲がり角である。まだ老年ではないが、もう青年でもない。なぜなら年長者の時期だからである。ギリシア人はこの時期の人をπρεσβύτηςと呼んでいる。それというのも、ギリシア人はsenex(老人)をpresbyterではなく、γέρων(老人)と呼んでいるからである。

第六は老年期である。この段階には年齢の終わりがない。しかし、先に述べた5つの段階の後で、その人の人生が何歳まであろうとも、老年期だとみなされる。

Senium(老齢)は老年の最終期である。6つ(cf. seni: six)の段階の終着点であることからそのように呼ばれる。

哲学者は人生をこれら6つの期間に分類した。この期間の中で人生は変化していき、進んでいき、死という終着点へと至るのである。そこで我々は上で述べた人生の諸段階に沿って、人間におけるこれら諸段階の語源を説明していこう1

第一の段階にある人間は幼児と呼ばれる。幼児(infans)はまだ話すことができない(fari nescit)のでそのように呼ばれる2。なぜなら、まだよく歯が生え揃っていないので、言葉の発音が不完全だからである。

少年(puer)は純粋さ(puritas)に由来してそのように呼ばれる。なぜなら少年は純粋(purus)であり、まだ髭も頬の産毛も生え揃っていないからである。この時期の人間はephebus (ἔφηβος, 青年)である。ephebusはPhoebus3に由来してそのように呼ばれる。この時期の男はまだ一人前の男子ではなく、まだ体のできていない青年である。

少年(puer)という語は三通りに用いられる。一つ目は誕生に関してである4。イザヤが言うようにである、

一人の少年が我々の下に生まれた。(Puer natus est nobis)5

二つ目は年齢に関してである。例えば8歳や10歳だと言われる。そこから次のように言われる、

既に子供用のくびきをその細い首につけていた。(Iam puerile jugum tenera cervice gerebat)

第三に従順と信仰の純粋さに関してである。主が預言者[エレミア]に語ったようにである6

私の子は君である、恐れてはならない。 (Puer meus es tu, noli timere)

この時にはエレミアは既に青年期をとっくに過ぎていた。

Puella(少女)はparvula(小さな女の子)であり、あたかもpulla(ひな鳥)であるかのようである。そこから、pupillus(被後見人である少年)という語は境遇に言及しているのではなく、少年の年齢に言及しているのである。また、眼の内にあるものについても言われる7Pupilla(瞳孔、被後見人である少女)とは両親のいない子供のことである。厳密な意味では名前を付けられる前に両親が亡くなった者が被後見人(pupillus)と言われる。この他の両親のいない子供(orbus)はorphanus(ὀρφανός, 孤児)と呼ばれ、[広義の]pupillusと呼ばれる子供と同義である。なぜならorphanusはギリシア語であり、pupillusはラテン語だからである。詩篇にも、このように書かれている8、「孤児にはあなたが助け手となるでしょう。」ギリシア語聖書ではὀρφανόςとなっている。

Pubes(思春期の男性)はpubes(陰部)、つまり身体の陰部に由来してそのように呼ばれる。なぜならこの時期に陰部に最初の毛が生えてくるからである。 またある人は年齢によって思春期を判断している。つまり、陰毛が生えるのがどんなに遅くても、14歳を満たしている者が思春期の男性であるとみなしている。そして、身体的な特徴が思春期の男性であることを示しており、既に生殖が可能である男性が、最も厳密な意味での思春期の男性であるとみなされている。


  1. これらの段階は歴史についても用いられた。以下では時期ではなく、その時期にある人間についての語源が説明される。
  2. in (否定) + fans (話すこと). この語源説明は正しい。cf. ウァッロ『ラテン語について』6:52, アウグスティヌス『告白』1:8.
    On the Latin language : Varro, Marcus Terentius : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive
  3. ポイボス・アポロンのこと。
  4. この用法はイシドルスの区分ではinfansに相当する。
  5. イザヤ9:6. BHS: יֶלֶד , 七十人訳: παιδίον, ヴルガタ:parvulus。
    ISAIAS PROPHETA 9 - Biblia Sacra Vulgata (VUL) - Bibelwissenschaft
  6. エレミア1:7-8. ここでのイシドルスの引用はかなり短縮され、二つの文が一つにまとめられており、文意が変わってしまっている。
    するとヤハウェは私に言われた、「あなたは、『若輩です、私は』などと言わないように。まことにあなたは、私が使わすすべての所へ、行かねばならず、私が命じるすべての事を、語らねばならないのだから。あなたは彼らの顔を恐れないように。」(旧約聖書翻訳委員会訳)
  7. 語源XI-1:37に瞳孔の意味でのpupillaの説明がある。
  8. 詩篇10:14 (ヘブライ語聖書での番号)。
    PSALMI 9 - Septuaginta (LXX) - Bibelwissenschaft

イシドルス『語源』翻訳 VI.2. 18-33『聖書の著者と名称について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。Oroz Reta J. and Marcos Casqueroの西訳とIsidoro di Siviglia, Etimologie o origini, primo volume, a cura di Angelo Calastro Canale, UTET, 2004.の伊訳も参照した。

前回

イシドルス『語源』翻訳 VI-2: 1-7『聖書の著者と名称について』 - Asinus's blog

イシドルス『語源』翻訳 VI-2: 8-17『聖書の著者と名称について』 - Asinus's blog

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

注釈は不完全であり、改定予定である。

翻訳

イスラエルの王であるダビデの子ソロモンは自分の名前の数に合わせて1三巻の本を編集した、その第一はマスロットである。ギリシア人はこれをParabola(παράβολα, 箴言)と呼び、ラテン語話者はProverbiorumと呼ぶ。なぜなら、この書ではソロモンは類似性を比較することで、言葉の像と真理の像とを示しているからである2。真理自体は読者が[自力で]理解するために[隠されたものとして]残してあるのである。

ソロモンは第二の書のことをコヘレトと呼んだ。この書はギリシア語ではEcclesiastes(伝道の書, Ἐκκλησιαστής)と呼ばれ、ラテン語ではContionator(伝道者)と呼ばれる3。なぜなら、彼の言葉は箴言のように特別に一人の者に向けられているのではなく、より一般にすべての者に向けられているからである。彼は我々が世界で見かけるすべての物事が短く虚しく、それゆえできるだけ求め欲するべきではないことを教えている。

第三の書はSir hassirim (שִׁיר הַשִׁירִים, 雅歌)という表題が付けられた。この書はラテン語にはCanticum canticorum(歌の中の歌)と翻訳される。この書では祝婚歌の形で、キリストと教会の結婚4を神秘的に歌っている。Canticum canticorumとも呼ばれるのはこの書の歌が聖書に含まれている[他の]すべての歌よりも優れているからである。これは律法において聖なるもの(sancta)と呼ばれるものの内で、より優れたものがsancta sanctorumと呼ばれるのと同様である5。ヨセフスとヒエロニムスが書いているように、これら三つの書の歌はヘブライ語版ではヘクサメトロスやペンタメトロスの韻律で書かれていた。

預言者というよりもむしろ福音書記者であるイザヤは、彼の書[イザヤ書]を編纂した6。その書ではすべての本文は雄弁な散文で進んでいる。しかし歌の部分はヘクサメトロスとペンタメトロスの韻律で流れていく。

同じく、エレミアは彼の書[エレミア書]を彼の哀歌(threnus, θρῆνος)と一緒にして編纂した。この書のことを我々はLamentaと呼ぶ。なぜなら不幸や葬儀の際に哀歌は用いられるからである。この書で彼は異なる韻律で四つのアルファベット詩を創作している。初めの二つはサッポーのような韻律で書かれている。なぜなら、[これらの詩では]一つの[アルファベットの]文字で始まり、互いに結ばれた三つの短句を英雄詩脚のコンマが締めくくっているからである。三つ目のアルファベット詩は三複詩脚7によって書かれており、三つの詩行が同じ三つの文字で始まっている8。第四歌は、第一歌と第二歌[の両方]と類似している9

エゼキエル書とダニエル書は賢者の誰かによって書かれたと言われている。その中でもエゼキエル書の初めと終わりの部分は多くの不明瞭な箇所を含んでいる。一方で、ダニエル書は明瞭な言葉で世の王国について告げており、そして非常に明瞭な予言によってキリストに敵対する時代について書き留めている。

彼らが大預言者と呼ばれる四人の預言者である10。なぜなら彼らは大部の著作を著したからである。 十二預言書は著者の名前によって呼ばれている。この著者たちは小預言者と呼ばれる。なぜなら彼らの言葉(文書)は短いからである。それゆえ互いに繋がった[12の]著作が一つの巻に一緒にされている。その著者たちの名前は以下の通りである。ホセア、ヨエル、アモス、オバデア、ヨナ、ミカ、ナホム、ハバクク、ゼファニア、ハガイ、ゼカリア、マラキである。

エズラ記は著者の名によって表題が付けられている。その本文ではエズラとネヘミアの両方の言葉が含まれている。一巻のエズラ書について言われて誰も困惑するべきではない。なぜならヘブライ人の聖書には第二、第三と第四のエズラ書は含まれておらず、アポクリファの中に入れられているからである。

エズラエステル書を書いたと信じられている。神の教会の似像である王妃[エステル]が民を隷属と死から解放したことが書かれている。そして不正の象徴であるハマンを殺害した日に、子孫のために祭りが制定された11

知恵の書はヘブライ人の聖書にはない。そのことと表題自体からもよりギリシアの匂いがする。ユダヤ人たちはこの著作はフィロンのものだと主張している。そしてこの書が知恵の書と呼ばれるのは、この著作において、父の知恵であるキリストの到来と彼の受難が明瞭に表現されているからである。

集会の書は確実に、エルサレム出身で、ゼカリアも言及している12大司祭ヨシュアの孫である、シラの息子ヨシュアが著作したものである。ラテン語の聖書ではソロモンの雄弁さと類似していることから、ソロモンの名が表題に付けられている。この書が集会の書と呼ばれるのは、すべての教会の規律に関して、多大な配慮と考慮のもとで、宗教的な生活について書き表されているからである。この書はヘブライ人の聖書にも見出されるが、アポクリファに入れられている。

ユディト書とトビト書とマカベア書の著者についてはほとんど何も明らかではない。その事跡が書かれている人物の名前からそれぞれの著作名がついている。


  1. VII-6.65では「ソロモンには三つの名前があると言われていた」ことについて述べられている。その三つとはSolomon, Ididia, Cohelethである。イェディデヤ(Ididia, יְדִידְיָהּ)はサムエル記下12:25にだけ出てくる、「ヤハウェに愛された者」の意味。

  2. cf. 箴言1:6. παράβολα (παραβολή)には「箴言」の他に「比較」や「比喩」の意味がある。「言葉の像」は比喩の意味、「真理の像」はアレゴリーや予型の意味に解する (Canale)。

  3. ヒエロニムスのソロモンの書(ヘブライ語版)序文(line 11-12)参照。
    “Coeleth, quem graece Ecclesiasten, latine Contionatorem possumus dicere”

  4. cf. 黙示録19:7, IIコリ11:2, エフェソ5:24.

  5. 至聖所に対する表現である (קֹדֶשׁ הַקֳּדָשִׁים)。

  6. 預言者というよりもむしろ福音書記者である」と雄弁さについての言及はヒエロニムスの「イザヤ書序文」が参照されている。

  7. イアンボス・トリメトロスのこと。

  8. 第三歌は行頭が三つずつAAA, BBB, CCC, …という形をしている。
    Lesen im Bibeltext :: bibelwissenschaft.de

  9. アルファベット歌になっているということ。

  10. イザヤ、エレミア、エゼキエル、ダニエルの四人のこと。

  11. エステル9:20-32. プリム祭のこと。

  12. ゼカリヤ3:1.

イシドルス『語源』翻訳 VI. 2. 44-53『聖書の著者と名称について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。Oroz Reta J. and Marcos Casqueroの西訳とIsidoro di Siviglia, Etimologie o origini, primo volume, a cura di Angelo Calastro Canale, UTET, 2004.の伊訳も参照した。

今回は福音書の後の最後の部分を訳出する。 前節はこちら。

イシドルス『語源』翻訳 VI-2: 1-7『聖書の著者と名称について』 - Asinus's blog

イシドルス『語源』翻訳 VI-2: 8-17『聖書の著者と名称について』 - Asinus's blog

イシドルス『語源』翻訳 VI-2: 34-43『聖書の著者と名称について』 - Asinus's blog

詩篇の番号は七十人訳のではなく、ヘブライ語聖書のものを用いる。聖書の引用部分については旧約聖書翻訳委員会訳と新約聖書翻訳委員会訳を参考にした。

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

訳註は不完全であり改訂予定である。

翻訳

使徒パウロは14個の書簡を書き記した。それらの内の9つは7つの教会に向けて書いており、残りは彼の弟子であるテモテ、テトス、フィレモンに向けて書いている。ラテン語話者の大部分はパウロヘブライ人への手紙の著者であるということを疑わしく思っている。これは文体の不一致のためである。ある者はバルナバがこの書を書いたのだと推測し、ある者はクレメンスによって書かれたのだと推測している。

ペトロは彼の名前で二つの書簡を書き記している。これらの書簡はCatholicae (普遍的な,正統教会の[書簡])と呼ばれている。なぜならこの書簡は一つの国民や国家に向けて書かれたものではなく、より普遍的にすべての国民に向けて書かれているからである。

ヤコブヨハネとユダは[それぞれ]自身の書簡を書き記した。

使徒行伝(Auctus Apostolorum)には諸国民におけるキリスト教の信仰の初期段階と教会誕生の歴史が順に語られている。福音書記者ルカが使徒行伝の著者である。この著作には誕生した教会の幼児期(infantia)について綴られており、使徒たちの生涯[についての記述]が含まれている。それゆえ使徒行伝(Auctus Apostolorum, 使徒たちの活動)と呼ばれるのである。

福音書記者ヨハネが黙示録を書き記した。それは伝えられているところによれば、福音を説いていたためにパトモス島に追放されていた時に書き記したのである1ギリシア語であるApocalypsis(ἀποκάλυψις)はラテン語ではrevelatioと翻訳される。なぜならevelatio(覆いを取ること)とは隠されていたものが明らかになることであるからである。ヨハネ自身も次のように言っている通りである、「イエスキリストの黙示[である]、自分の僕たちに示すために、神が彼(イエス)に与えたものである。」(Apocalypsin Iesu Christi, quam dedit illi Deus palam facere servis suis)2

これらが聖書の著者たちである。彼らは聖霊によって語り、我々を教育するために生の規範と信仰基準を書き留めているのである。

これら[聖書正典]の他には、アポクリュファ(apocrypha, 外典)と呼ばれている書物がある。アポクリュファ(cf. ἀπόκρυφον, 隠されたもの)、つまり秘密のもの(secreta)と呼ばれるのは疑いのもとにあるからである。なぜなら、それらの文書の起源は隠されており、[教会の]父たちにとっても[文書の著者は]明らかではないからである。彼ら[教会の]父たちから文書の真正性を伝える権威は、最も確実で知られている継承によって我々の下にまで至っているのである。このアポクリファにも、いくらかの真理は見出される。しかし多くの誤謬のゆえに、これらの文書にはいかなる正統教会の権威もない。思慮のある者は、その文書が帰された者によって書かれたとは信じられるべきではないと判断している。異端者によって預言者の名前で多くの著作が生みだされており3使徒の名前でより最近の著作が生み出されている4。これらの使徒の名によるすべての著作は、細心の吟味によって、正典の権威からアポクリュファの名で遠ざけられている。


  1. ドミティアヌス帝治世下でのキリスト教の迫害の時。

  2. 黙示録1:1.
    「これは。イエス・キリストの黙示である。この黙示は、すぐにも起こるはずの[一連の]事柄を、神が自分の僕たちに示すために、イエス・キリストに与えたものであり、そして[そのイエス・キリストが今度は]自分の天使を遣わして、彼の僕であるヨハネに知らせたものである。」(新約聖書翻訳委員会訳)

  3. 例えば(ヴルガタの名称での)第三エズラ書と第四エズラ書。

  4. 例えばペテロ福音書

イシドルス『語源』翻訳 VI. 2. 34-43『聖書の著者と名称について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。Oroz Reta J. and Marcos Casqueroの西訳とIsidoro di Siviglia, Etimologie o origini, primo volume, a cura di Angelo Calastro Canale, UTET, 2004.の伊訳も参照した。

今回は福音書の箇所を訳出する。 前節はこちら。

イシドルス『語源』翻訳 VI-2: 1-7『聖書の著者と名称について』 - Asinus's blog

イシドルス『語源』翻訳 VI-2: 8-17『聖書の著者と名称について』 - Asinus's blog

詩篇の番号は七十人訳のではなく、ヘブライ語聖書のものを用いる。聖書の引用部分については旧約聖書翻訳委員会訳と新約聖書翻訳委員会訳を参考にした。

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

訳註は不完全であり改訂予定である。

翻訳

四人の福音書記者たちがそれぞれ別々に四巻の福音書を書き記した。

第一にマタイがユダヤの国において、ヘブライ人の文字と言葉で福音書を書き記した。次のように人としてのキリストの誕生から福音を説き始めている、「アブラハムの子、ダビデの子、イエスキリストの誕生の記録」1。これは聖霊によって預言者たちに約束されていたように、キリストが肉体的には[イスラエルの]族長たちの血統に連なることを表している。

第二に聖霊に満ちたマルコがイタリアで流暢なギリシア語によってキリストの福音を書き記した。マルコは宣教のためにペトロに同行した2。預言の霊[の力]により、彼は次のようにこの書を始めている、「荒野で呼ばわる者の声、主の道を整えよ」3。これはキリストが受肉した後に、彼が世において福音を説く(praedicare Evangelium)ことを表している。なぜならキリスト自身も、次のように書かれているように、預言者と呼ばれているからである、「諸国民のための預言者に、あなたを定めていたのである」4

第三はルカであり、彼は全ての福音書記者の中で一番教養がある。実際彼はギリシアで医者であった5。彼は高官テオフィロスのために福音書を書き記した。それは祭司的な精神から次のように始まっている「ユダヤの王ヘロデの時代に、祭司ゼカリアがいた」6。これはキリストの肉における誕生と福音の宣教の後に、[キリストが]世の救済のために犠牲となることを表している。キリストは祭司であり、そのことは詩篇で次のように言われている、「あなたはとこしえにメルキゼデクの系統の祭司」7。なぜならキリストが到来した時に、ユダヤ人たちの祭司は沈黙し、律法と預言は失効したからである。

第四はヨハネがアシアで最後の福音書を書き記した。[彼の福音書は]「ことば」で始まっている。これは次のことを表している。我々のために[肉において]生まれ、受難してくださった救い主[キリスト]が、[すべての]世々の以前には神の言葉であり8、天から到来し、[十字架での]死の後に天へと再び帰って行くことである。

これらが四人の福音書記者である。聖霊がエゼキエルに四体の生き物として彼らを表した9。これらの生き物が四つであるのは、世界の四つの部分に渡ってキリスト教の信仰が彼ら[福音者書記]の宣教によって広められたからである。生き物(animalia)と言われるのはキリストの福音は人間の魂(anima)のために宣教されるからである。また、[生き物の下の外輪には]内と外に眼が満ちていた。これは預言によって言われ、前もって約束されていた福音を福音書記者たちが予見しているからである。また、生き物の脚は真っ直ぐであった。これは福音書書記たちにはいかなる曲がったところもないからである。そして[それぞれの生き物にある]6つずつ10の翼は彼らの脚と顔を覆っていた。それはキリストの到来の際に覆われていたものが明らかにされるからである。

Evangelium(福音, εὐαγγέλια)はbona adnuntiatio(善い知らせ)と翻訳される。なぜならギリシア語ではbonumはεὖ, adnuntiatioはἀγγελίαというからである。それゆえangelus(ἄγγελος, 使者)もnuntius(使者)と翻訳される。


  1. マタイ1:1.

  2. cf. 使徒行伝12:12.

  3. マルコ1:3. 1:1から始まっていないことから、文字通りの冒頭部分のことを言っているのではない。

  4. エレミア1:5.

  5. cf. コロサイ4:24. コロサイで言及されるルカはパウロに同行したルカを指しているのかどうかは不明。

  6. ルカ1:5.

  7. 詩篇110:4, ヘブ7:17.

  8. ヨハネ1:1.

  9. エゼキエル1:10. 人間、獅子、雄牛、鷲のこと。以下に言及されている箇所は次の通り。眼については1:18。脚については1:7。翼については1:11.

  10. ヘブライ語聖書、七十人訳、ヴルガタ訳では「4つずつ」。

イシドルス『語源』翻訳 VI. 2. 8-17『聖書の著者と名称について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。Oroz Reta J. and Marcos Casqueroの西訳とIsidoro di Siviglia, Etimologie o origini, primo volume, a cura di Angelo Calastro Canale, UTET, 2004.の伊訳も参照した。

前回VI-2:1-7 (モーセ五書).

イシドルス『語源』翻訳 VI-2: 1-7『聖書の著者と名称について』 - Asinus's blog

詩篇の番号は七十人訳のではなく、ヘブライ語聖書のものを用いる。

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

翻訳

ヨシュア記(Iosue liber)はヌンの子ヨシュアからそのように名付けられている。この書は彼の生涯[についての記述]を含んでいる。ヘブライ人はヨシュア自身がこの書の著者であると主張している。この書の本文では、ヨルダン川を渡った後で、敵たちの王国が破壊される。そしてイスラエルの民のために土地が分割される。それぞれの都市と村と山と境界によって、教会の霊的な諸王国と神的なエルサレムが予型されているのである。

士師記(Judicum)は国民の中の第一人者に由来してそのように呼ばれている。彼らはモーセヨシュアの後でかつダヴィデと他の王たちが存在する前にイスラエルを指導した。サムエルがこの書を書き表したと信じられている。

サムエル記(Liber Samuel)にはそのサムエルの誕生と彼の祭司職と事績とが書き記されており、そこからこの名前を得ている。そしてこの書がサウルとダヴィデの生涯についての記述を含んでいても、この両者はサムエルと関連づけられている。なぜならサムエルがサウルに王としての油を注ぎ1、サムエルがダビデに後の王としての油を注いだからである2。サムエル自身がこの書[サムエル記]の最初の部分を書き留め、ダヴィデが終わりまでの続きの部分を書いた3

列王記(Malachim)は、ユダとイスラエルの部族の王国とその事跡が時間の順序に沿って分けられていることから、そのように呼ばれる。 ヘブライ語のMelachim(מְלָכִים, 諸王)はラテン語ではregum(諸王)と翻訳される。エレミアが初めてこの書を一巻に編集した。その[エレミアによる編集の]前は、それぞれの王の生涯[の資料が]散在していた。

ギリシア語のParalipomenon(歴代誌) - 我々[ラテン語話者]はpraetermissorumあるいはreliquorum (補遺)と言うことができる - は次のような理由でそのように呼ばれる4。それは律法の書や諸王の書で省略されたり完全には語られなかった事柄が、この書に要約して簡潔に説明されているからである。

ある者はヨブ記(Librum Iob)はモーセが書いたのだと考えている。預言者の内の一人が書いたのだと考える人もいる。そして皮膚病を患った後のヨブ自身が受難についての著者であったと考えている者もいくらかはいる。皮膚病による霊的な戦いに耐えたヨブ自身が勝利を成し遂げたことを語っているのだと彼らは考えている。ヘブライ人によるとヨブ記の最初と最後の部分は散文で構成されている。しかし中間の「滅びよ、私が生まれたその日」と語られる箇所5から「それゆえ、自らを叱責し、悔い改めます」(idcirco ego me reprehendo et ago poenitentiam)の箇所6まではすべて英雄脚(ヘクサメトロス、六脚韻)で語られている7

詩篇(Psalmorum liber)はギリシア語ではpsalterium(ψαλτήριον)、ヘブライ語ではナブラ(nabla, 竪琴)8ラテン語ではorganumと呼ばれている9詩篇(Psalmorum liber)と呼ばれるのは一人の預言者が竪琴(psalterium)に合わせて歌って、コーラスが調和したトーンで答えるからである。詩篇ヘブライ語のタイトルはセペル・テヘリーム(Sepher Thehilim, סֵפֶר תְּהִילִּים)であり、これは[ラテン語では]volumen hymnorum(諸賛歌の書)と翻訳される。詩篇の著者は[それぞれの歌の]表題で言及されている者たちである。それはモーセ10ダヴィ11、ソロモン12、アサフ13、エタン14、イェドトン15、コラハの子ら16、エマン17エズラハ人18、その他の人々である。エズラがこれらの歌を一巻の本に編集した。ヘブライ人の聖書では詩篇のすべての詩は歌の韻律で書かれていることはよく知られている。ローマ人であるホラティウスギリシア人であるピンダロスの様式のように、イアンボス調で進む詩もあれば、アルカイック調で鳴り響く詩もあれば、サッポー調のトリメトロスで洗練されている詩もあれば、またテトラメトロスの韻律で進む詩もある。


  1. サムエル上10:1.

  2. サムエル上16:13.

  3. 七十人訳で既にサムエル記が二つに分けられている。

  4. 『語源』VI-1では列王記の次はイザヤ書であったが、VI-2では歴代誌が次に来ている。本章での説明される順番はこの後もVI-1の分類に一致していない。

  5. ヨブ3:3.

  6. ヨブ42:6. 「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。」(新共同訳)、イシドルスでは"in favilla et cinere"がない。
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  7. 情報源はヒエロニムス『ヨブ記序文(ヘブライ語版)』。石川・加藤訳注8 (加藤哲平, 2018, p. 293)を引用する。
    ヨブ記は実際にはヘクサメトロスでは書かれていない。聖書のヘブライ詩には、並行法、拍構造、韻など詩としての形式上の特徴が見られるが、ギリシア・ラテン詩のような韻律は存在しない(石川立「ヘブライ詩歌の技法」『聖書学用語辞典』日本キリスト教出版局、2008年、311-12頁)。おそらくヒエロニムスは、ラテン語読者に対してヘブライ詩を説明するために、便宜的にギリシア・ラテン詩の話を持ち出したのだろう。」

  8. 対応するヘブライ語はナベル(נֶבֶל)、ナブラはギリシア語(νάβλα)である. ヘブライ語ではתְּהִילִּים (諸々の賛歌)と呼ばれていた。

  9. 例えば詩篇33:2で竪琴への言及がある。
    ヤハウェを讃えよ、琴(כִנֹּור)をもって。十弦の竪琴をもって(בְּנֵ֥בֶל עָ֝שֹׂ֗ור)、かれをほめ歌え。」(旧約聖書翻訳委員会訳)

  10. 詩90.

  11. 詩3-9, 11-32, 34-41,51-65, 68-70, 86, 101, 103, 108-110, 124 , 131, 133, 138-145.

  12. 詩72, 127.

  13. 詩50, 73-83. アサフとエタンについては代上15:17を参照。

  14. 詩89.

  15. 詩39, 62, 77. cf. 代上16:41-42, 25:1.

  16. 詩42, 44-49, 84-85, 87-88.

  17. 詩88. エズラハ人へマン。cf. 王上5:11.

  18. エズラハ人については先に出たエズラハ人ヘマンとエズラハ人エタンしか登場しない。ここでは重複して数え上げられているのか。

イシドルス『語源』翻訳 VI. 2. 1-7『聖書の著者と名称について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。Oroz Reta J. and Marcos Casqueroの西訳とIsidoro di Siviglia, Etimologie o origini, primo volume, a cura di Angelo Calastro Canale, UTET, 2004.の伊訳も参照した。

聖書の分類についてはVI-1を参照。

イシドルス『語源』翻訳 VI-1 『旧約聖書と新約聖書について』 - Asinus's blog

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

翻訳

旧約聖書の著者はヘブライ人の伝統では次のように言い伝えられている。最初にモーゼが神に関わる歴史についての世界誌(cosmographia)を五巻の本に書き表した。これはPentateuchus(πεντάτευχος, モーセ五書)と呼ばれている。Pentateuchusは五巻本(quinque volumina)に由来してそのように呼ばれる。なぜならquinque(5)はギリシア語ではπέντε、volumen(書物)はτεῦχοςと呼ばれるからである。

創世記(Genesis)は世界の始まり(exordium mundi)と諸種族の生まれ(generatio saeculi)1を含んでいることからそのように呼ばれる。

出エジプト記(Exodus)はエジプトからの脱出(exitum)、あるいはイスラエルの民族の脱出を物語っている。それゆえにExodusという名前なのである。

レビ記(Leviticus)はレビ人(levita)の務めと犠牲の様々な違いを順に説明していることからそのように呼ばれる。そしてこの書にはレビ人のすべての規律が書き留められている。

民数記(Numerorum liber)はエジプトからの諸部族の脱出が数えられており(dinumerare)、荒野に42日の間留まったことへの記述が含まれていること2からそのように呼ばれる。

申命記(Deuteronomium)3ギリシア語に由来してそのように呼ばれる。これはラテン語ではsecunda lex (第二律法)と翻訳される。第二律法とはつまり[出エジプト記での律法の]繰り返しであり、かつ福音という律法の予型(praefiguratio)なのである。福音という律法はより前の律法[すべて]を含んでいるが、その[福音の]中で繰り返されたすべての内容が新しくあるようになのである。


  1. Barney et al.: the beginning of the world and the begetting of living creatures, Reta&Casquero: el comienzo del mundo y la genesis de la humanidad, Canale: la narrazione del principio dell'universo e della generazione del mondo.
    saeculumは中世ラテン語ではworldの意味もある。saeculusはここでは、世界、人間(の種族)、生き物(の種族)のいずれの意味であるかが解釈が分かれる。創世記には人間の種族についての系譜があることから、人間の種族と解した。

  2. 民数33:1-49.

  3. δεύτερος (第二) + νόμος (法、律法). cf. 申命17:18 (旧約聖書翻訳委員会訳注20, p.699). ヘブライ語聖書での「律法の写し」を七十人訳が「第二の律法」と訳したことで、ヴルガタ訳にも受け継がれ、近代語訳聖書でもこの書名が定着した。
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