Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

イシドルス『語源』翻訳 II-3 弁論家という名称と修辞学の諸部分について

はじめに

テキストはP.K.Marshell, Etymologies. Book II, Rhetoric with translation and commentaties, Paris, 1983. を使用した。また同書中の英訳とBerney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳も参照した。 また本箇所でイシドルスが用いたソースはカッシオドルスの『綱要』(institutiones),2.2.1-2 である。 以下のサイトでテキストを確認することができる。
https://www.documentacatholicaomnia.eu/03d/0484-0585,_Cassiodorus,_Institutiones_Divinarum_Saecularium_Letterarum,_LT.pdf

https://faculty.georgetown.edu/jod/inst-trans.html

翻訳

弁論家という名称と修辞学の諸部分について

 それゆえ弁論家(orator)とは話すことに熟達した善き男(vir bonus)である。その善さは素質、性向、技術(natura, mos, ars)からなる。話すことの熟達は巧みな雄弁(artificiosa eloquentia)からなり、巧みな雄弁は五つの部分からなる1。それは発見、配列、表現、記憶、実演(inventio, dispositio, elocutio, memoriam pronuntiatio)であり、この務めの目的は何かを説得することである。さらに、話すことの熟達自身は三つの物事からなる。それは素質、学び、経験(natura, doctrina, usus)である。素質とは天性の才(ingenio)であり、学びとは知識(scientia)であり、経験とは繰り返すこと(assiduitas)である。これらのものは弁論家のみに見られるのではなく、何かを成し遂げたような技術がある各々の人に見られるものなのである。(Haec sunt enim quae non solum in oratore, sed in unoquoque homine artifice expectantur, ut aliquid efficiat.)


  1. キケロ『弁論家について』II-79を参照。
    「彼らは雄弁を五つの言わば要素に分類する。すなわち、何を語るべきかを発見すること、発見したものを配列すること、ついで詞藻の飾りを施すこと、次いで記憶に託すこと、最後に実演、もしくは口演することの五要素である。奥義というにはほど遠い、いかにも当たり前の話だ。」訳はキケロー選集7 修辞学II, 大西英文訳, 岩波書店, 1999を使用。
    ラテン語テキストは以下で読むことができる。
    https://www.thelatinlibrary.com/cicero/oratore2.shtml#79