はじめに
テキストはP.K.Marshell, Etymologies. Book II, Rhetoric with translation and commentaties, Paris, 1983. を使用した。また同書中の英訳とBerney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳も参照した。アリストテレス全集1, 岩波書店, 2013, pp.1-102の中畑正志訳の『カテゴリー論』も参照した。
また本箇所でイシドルスが用いたソースはカッシオドルスの『綱要』(institutiones), 2.3.9-10である。 以下のサイトでテキストを確認することができる。
https://www.documentacatholicaomnia.eu/03d/0484-0585,_Cassiodorus,_Institutiones_Divinarum_Saecularium_Letterarum,_LT.pdf
https://faculty.georgetown.edu/jod/inst-trans.html
Marshellの注釈によるとイシドルスは本節ではマルティリアヌス・カペッルスもソースとして用いている。
翻訳
アリストテレスの『カテゴリー論』について
次にアリストテレスの『カテゴリー論』(categoriae)が続く。これはラテン語ではpraedicamenta(諸述定)と呼ばれる。様々な表示作用によってすべての発話がそれらのカテゴリーに含まれる。
カテゴリー論の道具立てには三つのものがある。一つ目は同名意義的、二つ目は同名同義的、三つ目は派生名的である1。 同名異義的とは複数の事物に対して名称が一つであるが、説明規定が同じではない時のことをいう。例えば「ライオン」がそうである。なぜなら名称に関する限りでは、本物であるものも絵に描かれたものも天上のものも「ライオン」と呼ばれる。説明規定に関する限りでは、本物であるものはある仕方で説明規定を与えられ、絵に描かれたものは別の仕方で説明規定が与えられ、天上のものも別の説明規定が与えられる。
同名同義的とは二つあるいはそれ以上の事物に対して名称が一つであり、説明規定も一つである時のことをいう。例えば「衣服」がそうである。なぜなら外套もトゥニカも「衣服」という名称で呼ばれ得て、説明規定が同一だからである。それゆえこの例は種類としては同名同義であると理解される。なぜなら同名同義は名称と定義にその[同一の]形を与えるからである。
派生名的、つまり派生的とは格の変化のみによって何かから名称に対応する呼称を得ているもののことをいう。例えば「善さ」(bonitas)から「善い」(bonus)、「悪さ」(malitia)から「悪い」(malus)がそうである。
そしてカテゴリーには10個の種がある。それは実体、量、質、関係、体勢、場所、時、所持、能動、受動である。(substantia, quantitas, qualitas, relatio, situs, locus, tempus, habitus, agere et pari.)2
本来的で第一義的に実体と呼ばれるものは何らかの基に措定されたものについて述べられるのでもなく、ある基に措定されたものの内にあるのでもないもののことである。例えばある特定の人間やある特定の馬がそうである。そして第二の実体と呼ばれるものはその種において、上で第一義的な実体と言われたものが、キケロが人間に含まれるように、その内にあり、含まれているもののことである3。
量とはそれによって何かが大きいのか小さいのかを表すための尺度のことである。たとえば「長い」と「短い」がそうである4。
質とはその人がどのような人かということである。 例えば「弁論家」あるいは「田舎の人」、「黒い」あるいは「白い」がそうである5。
関係とは何かと関係付けられることである。例えば「息子」と言われる時、「父」もまた示されている。これらの関係的なものは同時に起こる。例えば奴隷と主人は同時に名称の始まりを得ている。ある時に主人が奴隷よりも先に現れることはなく、奴隷が主人より先に現れることもない。一方が他方より先立ってあることはできない6。
場所とはどこにあるかということである。例えば公共広場にある、通りにあるがそうである。さらに場所の運動には六つの部分がある。つまり、右と左、前と後ろ、上と下である。同様に二つのもの、つまり位置(situs)と時(tempus)もそれら六つの部分を持つ。位置では例えば遠いと近いがそうである。時では例えば今日と昨日がそうである。位置(situs)は体勢(positio)に由来してそのように言われる。 体勢とは例えば誰かが立っているか、座っているか、横になっているというようなことがそうである。
能動と受動は「作用すること」と「作用されること」を表す。例えば"scribo"(私は書く)は能動態を持つ。なぜなら"scribo"は作用する事物を示しているからである。"scribor"(私は書かれる)は受動態である。なぜなら"scribor"はその人が作用を受けていることを示しているからである7。
そのいくつかの例を提示したこれら9つの例、あるいは実体の類自体つまりousiaにおいて、無数のものが見出される。知性によって把握したものでも同様である。それらは10個の述定のあるもの、あるいは別のものによって言葉で表現される。これらすべてのカテゴリーを含んでいる文は次のものである。「アウグスティヌス、大いなる弁論家であり、かの者の息子、教会に立っており、今日、法衣を身に纏っており、議論によって疲れていた。」(Augustinus, magnus orator, filius illius, stans in templo, hodie, inflatus, disputando fatigatur. 8)
ousia(本質存在)とはsubstantia(実体, 基に置かれているもの)、つまり他のカテゴリーの基にある(subjacet)固有性(proprium)である。残りの9つのカテゴリーは付帯性である。substantiaはすべての事物がそれ自体で存続する(subsistit)ことに由来してそのように呼ばれる。物体は存続する(subsistit)ので、実体(substantia)である。存続するものと基体(subjectum)においてあるところの付帯性は実体ではない。なぜならそれらは存続せずに変化するからである。色や形がそのようなものである。「基体について」(de subjecto)と「基体において」(in subjecto)は「それ自体について」(de ipso)と「それ自体において」(in subjecto)と同様[の関係]である。あるものが「基体について」(de subjecto)であるものと語られる時、そのものは実体である。あるものが「基体において」(in subjecto)であるものと語られる時、そのものは付帯性である。つまり実体に付帯する(accidunt, 起こる)ものである。例えば量、質、形が付帯性である。それゆえ「基体について」であるものとは類と種であり、「基体において」あるものとは付帯性である。前述の9個の付帯性のうち、三つは本質存在の内にある、それは質と量と体勢である。これらは本質存在がなければあることができない。本質存在の外にあるのは場所、時、所持である。本質存在の内と外にあるのは関係、能動、受動である。
これらは"categorica"という名称で呼ばれる。なぜなら基体からでなければ知覚されることができないからである。誰が人間の基体として、ある特定の人間自体を目の前に置くことなしに「人間とは何であるか」を知覚できるだろうか。このアリストテレスの著作を理解すべきである。なぜなら既に述べられたように人間が語るどのようなこともこれら10個の諸述定(praedicamenta)に含まれるからである。このことは修辞学者あるいは弁証論者に向けられた書物を理解するのに役立つだろう。