Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

イシドルス『語源』翻訳 II-24 『哲学の定義について』

はじめに

テキストはP.K.Marshell, Etymologies. Book II, Rhetoric with translation and commentaties, Paris, 1983. を使用した。また同書中の英訳とBerney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳も参照した。

また本箇所でイシドルスが用いたソースはカッシオドルスの『綱要』(institutiones), 2.3.12-14である。 以下のサイトでテキストを確認することができる。
https://www.documentacatholicaomnia.eu/03d/0484-0585,_Cassiodorus,_Institutiones_Divinarum_Saecularium_Letterarum,_LT.pdf

https://faculty.georgetown.edu/jod/inst-trans.html

翻訳

哲学の定義について

哲学とはよく生きることを欲することと結びついた人間に関する事柄と神に関する事柄の理解のことである.

(Philosophia est rerum humanarum divinarumque cognitio cum studio bene vivendi conjuncta.)

哲学は二つの事柄からなると思われる. それは知識と思いなしである。 知識とは確かな根拠によって何らかの事柄が理解される時がそうである。一方思いなしとはまだ不確かな事柄が隠されており、いかなる確かな理拠も理解されていない時がそうである。例えば思いなしは「太陽が見えているのと同じくらいの大きさであるのか、あるいは大地すべてよりも大きいのかどうか」がそうである。同じく以下のようなものが思いなしである。「太陽は球体であるのかそれとも窪んでいるのか」や「星は天にくっついているのか、 あるいは自由な運行で空気によって移動しているのか」、「天自体はどのような大きさであり、何の物質から構成されているのか」、「天は静止しておりかつ不動であるのか、または信じられないほどの速さで回転しているのか」、「大地はどれほどの厚みであるのか、あるいは何を基礎として均衡を保ち支えられたままであるのか」。

philosophiaをラテン語に翻訳した名前はamor sapientiae(知恵への愛)である。なぜならギリシア語の'philo'は[ラテン語では]'amor' で'sophia'は'sapientia'と言われるからである。哲学の種は三つの部分から成る。一つは自然学であり、ギリシア人が'phisica'と呼ぶものである。自然学では自然の探求について議論される。二つ目は倫理学であり、ギリシア人が'ethica'と呼ぶものである。倫理学では倫理的事柄についての(de moribus)探求が行われる。三つ目は論理学(言葉の学)であり、ギリシア人の言葉では'logica'と呼ばれるものである。論理学では事物の原因に関して、あるいは人生での倫理的事柄に対して真理自体が探求される。それゆえ自然学では原因の探求(causa quaerendi)、倫理学では生の秩序(ordo vivendi)、論理学では理解の論拠(ratio intellegendi)が扱われる。

ギリシア人によれば自然学を初めに詳細に探求した者は七賢人の一人であるミレトスのタレスである。タレスは他の者たちよりも先に天に関する事物の原因と自然に関する事物の力について理性的な考察によって疑問を抱いた。その後にプラトンが自然学を四つの説明規定へと分類した。四つとは算術(arithmatica)、幾何学(geometrica)、音楽(musica)、天文学(astronomia)である。

ソクラテスが最初にあり方(mores)を正し定めるために倫理学に取り組んだ。彼は熱意の全てをよく生きることについて議論することに向けた。彼は倫理学を魂の四つの徳へと分類した。それは思慮(prudentia)、正義(justitia)、勇気(fortitudo), 節制(temperantia)である。思慮とは物事において善いことと悪しきことを区別することに関わる徳である。勇気とは平静に不運を耐えることに関する徳である。節制とは欲望(libido)と激しい欲求(concupiscentia)を抑制する(frenatur, 手綱を引く)ことに関する徳である。正義とは正しい判断によって各人に自分の分け前を分配することに関する徳である。

プラトンは'rationalis'と呼ばれているlogica(論理学)を[自然学と倫理学に]付け加えた。論理学によって、事物の原因と倫理的な事柄が取り除かれた時に、それらの力が論理的に吟味される。プラトンは論理学を弁証論と修辞学に分類した。logicaという言葉はrationalisのことである。なぜならギリシア人が言う'logos'はsermo(言葉)とratio(理拠)の両方の意味を持つからである。

さて、聖書(eloquia divina)も哲学のこれら三つの種から成る。なぜならまず自然について何度も論じられている。例えば創世記や伝道の書において述べられていることがそうである。倫理についても何度も論じられている。例えば箴言や様々な書において述べられていることがそうである。言葉の学(logica)についても何度も論じられており、これによって我々キリスト教徒は神学を自分のものだと主張している。例えば雅歌や福音書で述べられているものがそうである。

また、哲学の教師の内には哲学の名称と部分を次のように定義する者もいる、「哲学とは人間に可能な範囲での神に関する事柄や人間に関する事柄の真実らしい知識である。」

(Philosophia est divinarum humanarumque rerum, in quantum homini possibile est, probabilis scientia.)

次のように定義する者もいる、「哲学とは技術の技術であり、学知の学知である。」

(Philosophia est ars artium et disciplina disciplinarum.)

さらに次のようにも定義される、「哲学とは死の訓練である*1。」

(Philosophia est meditatio mortis.)

この定義は現世の欲(ambitio)を踏みつけ、訓練されたあり方で未来の祖国に似つかわしく生きるキリスト教徒にこそよりふさわしい定義である。

哲学は二つの部分へと分割される。一つ目は理論的部分(inspectivus)であり、二つ目は実践的な部分(actualis)である。哲学(philosophiae ratio)を二つの部分からなるものとして定義する者もいる。その一つ目が理論的部分であり、二つ目が実践的部分である。哲学の理論的部分は三つの種類に分割される。一つ目は自然に関する部分(naturalis)であり、二つ目は学問に関する部分(doctrinalis)であり、三つ目は神的な事柄に関する部分(divinus)である。学問に関する部分は四つに分割される。一つ目は算術であり、二つ目は音楽であり、三つ目は幾何学であり、四つ目は天文学である。実践的な部分は三つに分割される。一つ目は倫理(moralis)に関する部分であり、二つ目は家政に関する部分(dispensativus)であり、三つ目は共同体に関する部分(civilis)である。

理論的な部分(Inspectiva)*2 はそれによって目に見えるものから超え出て、神的な事柄や天体に関する事柄を観察し、精神のみによってこれらの事柄を観想する(inspicio)ことについて言われる。なぜならそのようなことを見取ることは物質的なものを見ることから超え出ている(supergredior)からである。

自然的な部分はそれぞれの自然的事物について論じられる時がそうである。なぜなら生命においては何物も生じる(generare)ことはなく、神が定めたそれぞれの持ち分が割り当てられるからである。

神的な部分は言い表すことができない神の本性や霊的な被造物について極めて深い性質に関して論じられる時がそうである。

学問に関する部分とは抽象的量について考察する学知(scientia)がそのように言われる*3。ここで抽象的量とは知性によって質量から、あるいは他の偶有性から分離された量のことである。例えば推論(ratiocinatio)のみによって偶数や奇数や他のそのような量が考察される。数学の種は四つある。それは算術(Arithmetica)、音楽(Musica)、幾何学(Geometria)、天文学(Astronomia)である。算術とは数的量をそれ自体で考察する学である。音楽とは音において現れる数について語られる学である。幾何学とは大きさと形についての学である。天文学とは天体の運行と天体すべての形状と星の位置(habitudo)について考察する学である。

次に実践的な部分は固有な活動として定められた事柄を説明しようと勤めるときにそのように言われる。実践的な部分には三つの部分がある、倫理的部分と家政的部分と共同体に関する部分である。倫理的な部分はそれによって高潔な生き方を得ようと欲し、徳へと向かう習慣(institutum)が準備されるときにそのように言われる。家政的な部分は家政的な事柄の秩序が賢明に定められるときにそのように言われる。共同体に関する部分とはそれによって共同体全体のもの(totius civitatis utilitas)が取り仕切られる(administror)時にそのように言われる。

*1:cf. プラトンパイドン』67E, 81A

*2:in + spectus 中を見ること

*3:以下の数学的諸学の説明はカッシオドルス『綱要』2.3.6と完全に同じ。また第三巻冒頭の数学の説明も同じ文章である。