Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

「パンとサーカス」の文脈: ユウェナーリス『風刺詩』第10歌を読む

我々ローマ市民は選挙権を誰にも売らなくなって以来、長い間政治的な責任を放棄している。つまり、かつては命令権も、儀鉞も、軍団兵も、何もかも自分の意志で与えていたのに、今では我とわが欲望を制限し、ただ二つのことしか気にかけず、ただそれだけを願っているのだ。穀物の無償配給と大競争場の催し物を(panem et circences)。

ユウェナーリスは俗に言う「健全な精神は健全な肉体に宿る」という一節で知られている古代ローマの風刺詩人である。だがこのフレーズはユウェナーリスは言っておらず、ユウェナーリスの元のテキストにある「どうか、健全な身体に健全な精神を与え給え」(orandum est, ut sit mens sana in corpore sano)というフレーズと意図も内容も大きく異なる1。この事実はかなり知られてるようになってきており、この言葉が置かれている文脈も説明されるようになってきている。

ところで、ユウェナーリスの言葉でもう一つよく知られているのが記事冒頭にある「パンとサーカス」(panis et circences, 正確には「穀物の無償配給と大競争場の催し物」)である2。 全16歌(死により未完)の『風刺詩』の第10歌末尾近くで健全な身体の一節が登場するが、実は同じ10歌にこのパンとサーカスのフレーズもあり、健全な身体より先に登場する。この「パンとサーカス」もこの一節のみが有名であり、言葉が置かれている文脈は省みられることがない。

この記事では『風刺詩』第10歌全体を読んでいき、どのような文脈でパンとサーカスが現れるのかを確認し、原文でのこの言葉の意図を明確にする。引用とページ番号は岩波文庫『ローマ風刺詩集』国原吉之助訳のものである。

パンとサーカス」は二つの使われ方がされ得る。一つはこれら二つを与えられて政治的に無関心になっている民衆を批判するという使われ方。もう一つは市民を政治的盲目な状態に置いている政府・権力者の愚民政策を批判する使われ方である3。はたして原典ではどちらに重点が置かれているのだろうか。

第10歌全体の主題は人生において何を恐れ、何を願うべきだろうかということである。多くの人が願う富、権力、名声、長寿、恵まれた容姿がローマとギリシアにおいてその人の破滅を引き起こしてきたことが様々な例を通じて語られる4

パンとサーカスの一節は次のようなテーマの中で語られる (p.239)。

それには、どのような祈願が甲斐なく危険であるのか、どのような願い事を書いた蠟版を神々の膝の上に備えると、神意にかなうことになるのか。

自らの権力による失墜の例としてティベリウス帝の護衛隊長であったセイヤーヌスの処刑が語られる (pp. 239-240)。

そしてその後にパンとサーカスの一節の直前は次のようになっている (p.240)。

しかし、こう噂しているローマの民衆はどうなのか。彼らは昔からずっと、幸運な人に追従し、断罪された人を忌み嫌ってきたものである。そこでこの同じローマの民衆は、もしエトルーリアの幸福の女神ノルティアが、エトルーリア人のセイヤーヌスを贔屓して、老齢の元首が警備の隙に扼殺されていたら、まさにその瞬間、彼らはセイヤーヌスをローマ皇帝と歓呼していたかもしれない。

ここではローマの民衆の時の権力者への追従が風刺されている。

パンとサーカスの直後はセイヤーヌスの処刑に対する民衆のひそひそ話が描写される5。そしてこのような結末を迎えるのに権力を求めるのかという問いかけとセイヤーヌスの例の総括が述べられる。

そういう次第で、セイヤーヌスは何を神に祈願すべきかを知らなかったのだということを、あなたは認めることになろう。つまり彼は法外な名誉を希求し、度はずれな富を欲しがり、多層の屋根で聳え立つ塔を建てようとして、その結果、どこよりも高いところから瓦解が起こって、真っ逆様に崩れ落ちる構造物の量が桁はずれに膨大となったのだ。

つまり、願うべきでない権力・富・名声を願って破滅する人物の悲惨さを際立たせるために民衆の反応が処刑の直後に描かれており、そこでそのような迎合的な民衆に対するユウェナーリスの風刺としてパンとサーカスの一節が述べられているのである6

見てきたようにパンとサーカスの一節は直接には権力者を批判しているのではなく、民衆に対する批判の文脈で述べられている。よって「パンとサーカス」は元々の原典の文脈では民衆への批判であり、原典の文脈からは離れて政権や衆愚政治への批判という用法で用いられるようになったのである。


  1. ユウェナリス - Wikipedia

  2. パンとサーカス - Wikipedia

  3. もちろん民衆と権力者の両方を非難する目的で使われることも多いだろう。ここではどちらにより重点があるのかという観点で論じる。

  4. 最高の地位で破滅: クラッスス、ポンペーイユス、カエサル (pp.242-243).
    雄弁で破滅: デーモステネス、キケロー (pp.243-244).
    栄誉・名誉への願望で破滅: ハンニバルアレクサンドロス大王、クセルクセース (pp. 245-248).
    肉体の老化の悲惨(pp.248-249)、感覚の老化の悲惨(pp.249-250)、認知の老化の悲惨(pp.250-251)、先立たれる悲惨: ネストール、プリアモス、マリウス等 (pp. 251-254).
    恵まれた容姿による悲惨 (pp.254-257).
    キケローなどの徳がある人も破滅していることから破滅の原因は必ずしも悪徳とは限らない。

  5. 「(中略) そして、死体がティべリス川の岸辺にさらされているうちに、カエサルの仇敵を足で踏みつけよう。こうして我々の行動を奴隷たちに見せつけておくのだ。」

  6. セイヤーヌスの例が健全な身体の一節とどのようにつながるのかも見ておこう。
    さまざまな願うものの検討の後、10歌の最後には願うべきものについてのユウェナーリスの忠告が語られ、有名な健全な身体の一節が述べられる (p. 258)。
    「 我々にとって何を祈るのがふさわしいのか、我々の今の境遇にどんな願い事が役に立つのか、その判断は神々の意志にお任せするほうがいいと。(中略) それでもあなたが神々に何かをお願いしたいのならば、そして小さなお社に。純白に輝く豚の内臓と小さな腸詰をお供えしたいのなら、どうか、健全な身体に健全な精神を与え給えと祈るがよい。」