Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

イシドルス『語源』翻訳 VIII-6: 11-17『異教徒である哲学者について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

イシドルス『語源』翻訳 VIII-6: 1-10『異教徒である哲学者について』 - Asinus's blog

脚注は不完全であり改訂予定である。

翻訳

アカデメイア派はアテナイにあるプラトンアカデメイアの施設に由来してそのように呼ばれる。アカデメイアではプラトン自身も教えた。彼ら[アカデメイア派]はすべては疑わしいと考えた。しかし、神が人間の知性を超え出ているように欲した多くの物事が[人間にとって]疑わしく隠されているのを認めなければならないのと同じように、非常に多くの物事が感覚によって知覚され得て、理性によって把握され得ることも認めなければならない1。キュレネのアルケシラオスがこの学派を創始した。デモクリトスはアルケシラオスの弟子であった2。彼は言った。「いわば底のない古い井戸のような、隠れたところに真理はある。3」(tamquam in puteo alto, ita ut fundus nullus sit, ita in occulto iacere veritatem.)

逍遥学派(ペリパトス派)は逍遥(deambulatio)に由来してそのように呼ばれる4。なぜならその創始者であるアリストテレスは逍遥しながら議論する慣わしだったからである。彼らは次のように述べている。「魂のある部分は永遠(不死)であり、残りの大部分は可死的である」

キュニコス派は恥知らずな汚らしさに由来して5そのように呼ばれる。なぜなら人間的な慎みに反して、公然と妻と交わるのが彼らの習慣だったからである。妻と公然と交わることは正当なことで高潔なことだと彼らは主張していた。性交することは正当なことなのだという理由で、犬のように通りで公然と性交するべきだと彼らは説いていた。そこから[学派の]通り名と名前を彼らが生活を真似ているところの犬から得ていたのである。

エピクロス派は、知恵ではなく虚偽を愛する哲学者であるエピクロスに由来してそのように呼ばれる。哲学者たち自身がエピクロスのことを「豚」と呼んでいた6。あたかも[豚が]泥浴びをしているようであり、肉体的な快が最高善であると主張していたからである。さらにエピクロスは次のように言っている。「いかなる神の摂理によっても世界は制定も統治もされてもいない。」7 だが一方で彼は事物の起源を原子、つまり分割できない固体である物質に割り当てている。この原子が偶然に衝突することで宇宙は生まれ生じたのである。さらに彼ら8は次のように主張している。「神は何もしていない。万物は物質からできている。魂は物質と異ならない。」 そこから次のようにも言っている。「私が死んだ後には、私は存在しないだろう」9

人目のつかないインドの荒野において陰部の覆いのみをつけて裸で哲学をする人々は裸の賢者(Gymnosophista)10と呼ばれる。なぜならGymnasium(体育場)はマルスの野で青年が陰部のみ覆って裸で(nudus, γυμνός)訓練することに由来してそのように言われる。裸の賢者は生殖をも断っている。


  1. アカデメイア派の学説に対する反論に話が移っている。
  2. Barney et al. 注7, p.179.
    "Arcesilaus or Arcesilas, founder of the Middle Academy, was from Pitane in Aeolia, not Cyrene in Libya, but there was a line of kings in Cyrene with the name Arcesilas. There was also a school known as Cyrenaics, but Arcesilaus was apparently not a member of this. This Democritus is distinct from the more famous Democritus of Abdera."
    [訳者注] アルケシラオスの地名の間違いはキュレネのラキュデスやキュレネのカルネアデスと同じ場所と考えられたからかもしれない (cf. キケロ『アカデミカ前書』VI. 16)。イシドルスのこの箇所のアルケラオスアカデメイア派の創始者に位置付けられていることから、テキストの内容上はキュレネにいた同名のアルケラオスのことではあり得ない。この箇所のデモクリトスの引用はアブデラのデモクリトスの断片から説明がつくので、この箇所のデモクリトスはアブデラのデモクリトス本人であると考える。
  3. cf. DK117 (『ギリシア哲学者列伝』IX 72). 断片の表現との違いについては次のことが知られている。
    ラクタンティウスがInstitutionum, 27でデモクリトス断片のἐν βυθῷ (深みに)を'in puteo' (井戸の中に)と訳している。 (H.G. Huebner, Diogenes Laertius: De vitis, dogmatis, et apophthegmatis clarorum philosophorum libri decem, vol. 4. 1833.)
    cf. 虚無と美 : ポーの詩論における唯物論的背景, 伊達 立晶, 2002. Osaka University Knowledge Archive (OUKA)
    DK117.
    デモクリトスは性質を追放して、「熱いは慣わしによること、冷たいは慣わしによること、本当は原子と空虚〔あるのみ〕」といっている。そしてさらに「本当はわれわれは何も知ってはいないのであって、真理は深みに沈んでいる」と。
    〔参照〕キケロ(『アカデミカ第一』II 10, 32)
    自然を責めよ。というのも、自然は、デモクリトスのいうように、真理をはるかな深みに隠したのだから。
  4. cf. περιπατητικός.
  5. 犬(κύων)が連想されている。
  6. cf. ホラティウス『書簡詩』1:4.
    「私は肥えて肌の手入れもよく艶々しています。どうか訪ねてください。
    笑ってやってください、エピクロース派の豚になっていますから。」(高橋宏幸訳)
    Q. Horatius Flaccus (Horace), Epistles, book 1, poem 4
    cf. キケロ『ピーソー弾劾』37.
    M. Tullius Cicero, Against Piso, section 37
  7. 以下はエピクロス主義者の思想
  8. cf.『哲学者列伝』 X 123, 139 (『主要教説』1).
    DL X123. 「まず第一に、神についての共通な観念が人々の心に銘記されているとおりに、神は不滅で至福な生き物であると信じて、神の不滅性とは無縁なことも、またその至福性にはふさわしくないことも、何ひとつ神に押しつけてはならない。」(以下加来彰俊訳)
    DL X139. 「至福にして不滅なるもの(神)は、そのもの自身が煩いを持つこともなければ、他のものに煩いをもたらすこともない。したがって、怒りにかられることもなければ、好意にほだされることもない。なぜなら、そのようなことはすべて、弱い者のみにあることだから。」
  9. cf.『哲学者列伝』 X 124 (『主要教説』2).
    DL X124.「死はわれわれにとって何ものでもないと考えることに慣れるようにしたまえ。というのは、善いことや悪いことはすべて感覚にぞくすることであるが、死とはまさにその感覚が失われることだからである。それゆえ、死はわれわれにとって何ものでもないと正しく認識するなら、その認識は、死すべきものであるこの生を楽しいものにしてくれるが、それは、この生に無限の時間を付け加えることによってでなく、不死への(空しい)憧れを取り除くことによってそうするのである。」
  10. γυμνός (裸の) + σοφιστής (賢者). cf. 『哲学者列伝』I 6, 9.