はじめに テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。Oroz Reta J. and Marcos Casqueroの西訳とIsidoro di Siviglia, Etimologie o origini, primo volume, a cura di Angelo Calastro Canale, UTET, 2004.の伊訳も参照した。
歴史的な内容についてはThe Oxford Classical Dictionary, 4th editionと西洋古典学事典を参照した。
脚注は不完全であり、改定予定である。
翻訳
5.『初めてローマに書物をもたらした者について』
アエミリウス・パウルス1がマケドニア王国のペルセウスを打ち破った時に初めて大量の書物をローマにもたらした2。次いでルクッルス3がポントスから戦利品として書物をもたらした4。その後にカエサルがウァッロ5に最大の図書館を建設するという任務を与えた。ポッリオが初めてローマにギリシア語著作とラテン語著作の両方の図書館を公共開放した6。その広間には著者たちの彫像が置かれていた。彼はこの図書館を戦利品で得た利益によって、この上なく豪華に建てた。
6. 『我々の間で図書館を設立した者について』
我々[キリスト教徒]の間では殉教者パンフィルス7も図書館を設立した。彼の生涯についてはカエサリアのエウセビオスが記録した8。パンフィルスが初めて、ペイシストラトスに匹敵するほどに、聖なる図書館に対して熱意を注いだ。 それは彼の図書館には約三万巻の書物があったからである。
そして、ヒエロニムスとゲンナディウス9は計画的に世界中で探し回り、聖なる著作家の書物を収集した。彼らの調査の結果は一巻の目録にまとめられている。
7.『誰が多くの著作を物したか』
ラテン語圏ではマルクス・テレンティウス・ウァッロが数え切れないほどの著作を物した10。
ギリシア語圏ではカルケンテロス11が非常に賞賛されている。なぜなら彼は非常に多くの著作を物したので、我々の誰もが自分の手で[彼の全著作を]書き写すことがほとんど不可能なほどなのである。
ギリシア語圏の我々キリスト教徒については、オリゲネスがギリシア語著者だけではなくラテン語著者たちをも、著作数で上回っている。ヒエロニムスは彼の著作を六千巻読んだと証言している。
アウグスティヌスは才能あるいは学識によって、これらすべての著作家たちの成果を上回っていた。彼が物した著作は非常に多いので、誰も、幾昼夜かけても彼の著作を書き写しきることができないだけでなく、読み切ることすらできないのである。
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Lucius Aemilius Paullus Macedonicus (228?-160bc). ↩
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ピュドナの戦い(168bc)での勝利のこと。↩
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Lucius Licinius Lucullus (117?-56bc).↩
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ミトリダテス6世との戦争のこと。↩
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Marcus Terentius Varro (116-27bc). ↩
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Gaius Asinius Pollio (76bc-4/5ad). ↩
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史料翻訳:カエサレアのエウセビオス著 『パレスチナ殉教録』
https://researchmap.jp/multidatabases/multidatabase_contents/download/229794/fd13537b03614b98a494984928e80a8f/2444?col_no=2&frame_id=519284↩ -
Gennadius Massiliensis (Gennadius of Massilia). De Viris IIIustiribus(著名者列伝)の著者。ヒエロニムスとイシドルスにも同名の著書がある。↩
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彼が78歳になったときには490巻の書物を著していたと伝えられる(Gell. 3.10.17)。↩
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Didymos Chalkenteros. アレクサンドリアの文献学者。その勤勉さゆえにKhalkenteros(χαλκέντερος, 青銅のはらわたを持つ男)と渾名された。↩