Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

プラトン『国家』588b-589bの内容

グノーシス派の原資料を大量に含んでいるナグ・ハマディ文書のCodex VIには、プラトン『国家』の抜粋(588b-589b)が含まれている1

Plato, Republic 588A-589B -- The Nag Hammadi Library

この事実に対して次のような疑問が浮かぶだろう。

  • ナグ・ハマディ文書になぜキリスト教グノーシスとは直接の関係がないプラトンの『国家』が含まれているのか?

  • 『国家』が含まれていたのは偶然ではなく意図的だったのだろうか?

  • 意図的ならば、どのような意図で『国家』を保存したのだろうか?

  • グノーシス派は当該箇所をどのように解釈したのだろうか?

この記事では、ナグ・ハマディ文書についてはほとんど触れず、まず当該箇所588b-589bの内容と『国家全体』での位置付けと内容を簡単に確認することにする。この箇所は第9巻の12章に含まれている。国家は全10巻で、第9巻は全13章なので、終盤である2

588bでまずソクラテスは最初に語られた言説を取り上げようと語り、次のように言説(テーゼ)を要約する。

「完全に不正な人間でありながら、世間の評判では正しい人であると思われている者にとっては、不正をはたらくことが有利である」

ここでの最初に語られた言説とは、グラウコンの挑戦と呼ばれる部分(357a-361d)3にある。この問いに応えるために以後の対話がなされていた。この言説を信じる人に対し、588eでは「正義をなすことは利益にならない」という主張も追加されている。

『国家』の588bまでの議論、特に不正な行為と正しい行為がそれぞれどのような力を持つか(4.18, 444c-e)という同意を踏まえ、このようなテーゼを信じている人を説得するという形で議論が進む。説得はロゴスによって魂の似姿(εἰκών)を怪物として描くことによって行われる。

9.4-11 (576b-588a)で独裁者(最も不正な人)の生は最も不幸であり、哲学者(最も正しい人)の生が幸福であることが、三種類の論証によって示されていた(9.4-6, 9.7-8, 9.9-11)。それに対して、ここでは論証ではなく比喩を用いて、不正な人が有利であるという言論を捨てるように説得することで正しい人と不正な人の判定が締め括られる。

『国家』全体では、第4巻での魂の三区分(理知的部分 λογιστικόν、気概的部分 ἐπιθυμητικόν、欲望的部分 ἐπιθυμητικόν)が、この比喩の解釈で前提とされている。

ロゴスで描く描く怪物は人間の魂に対応する。なので、この怪物は不正な人だけではなく、正しい人も持っていることになる。怪物は三つの動物が一つに結びつけられてできているが、この三つの動物は、プラトンの魂の部分に対応する。具体的には1. 多頭の動物は欲望的部分、2. ライオン(獅子)は気概的部分、3. 人間は理知的部分(ロゴス的部分)に対応する。

多頭の動物の例としてキマイラ、スキュラ、ケルベロスがあげられる。ちょうど挙げられた例の数が三つであるが、これらが魂の三部分に対応するわけではない。

説得する相手に次のことを言って聞かせることになる。不正を働くことが利益となるというテーゼは、比喩においては、次のような状態が利益となることを意味する。

多頭の動物とライオンの二つを強くし、(内なる)人間を弱くする。人間は他の二つの動物に引きずっていかれる。そして、多頭の動物とライオンは互いに闘い合う関係にある(588e-589a)。

(欲望と感情に、理知が追従する。魂のすべての部分が分裂した状態であり、理知的部分はその他の二つの部分から支配される。)

正義が利益になるという言説は次のことを目指すことを意味する。

内なる人間がライオンを味方にし、動物たちを支配し、配慮する。内なる人間は動物たちを互いに友愛の関係に置き、全部を共通に気遣いながら養い育てる(589a-b)。

(つまり、理知的部分が気概的部分を味方にして、他の部分を支配し、欲望的部分についてはコントロールして、魂のそれぞれの部分が調和するようにする。)

正しい人と不正な人では魂の部分間の関係が異なる。

ここまでが588b-589bの内容である。588b-590dまでは人間の魂について論じられていたが、590eから592bまでは、国家と魂のアナロジーを通じて、理想国の法律や国制についても議論に登場する。なので、『国家』の588bまでを知らない人にとっては、591e以降は理解できないことになる。なので、抜粋が機能するのは最大で588b-591dまでである。なぜ589bで終わっているかの納得のいく理由は思い付いていない。590dでは第1巻のトラシュマコス(説)への言及があるので、その前で終わって、588b-590bでも良さそうである。590aでは対話相手のグラウコンの名前が出るので、それより前で終わらせたというのが思いつく理由である。

抜粋としての読解

第10巻のエルの神話はそこだけ取り出して読むこともできるが、他にも独立して読むことができる箇所があったことは驚きである。一応は独立して読むことができる箇所であることから、『国家』の断片がたまたま紛れ込んだと考えるよりも、意図的に保存したと考えるほうがよいと思う。『国家』588bまでを無視して、抜粋部分だけから何が読み取れるかを考察しよう。抜粋部分だけからは、魂の三区分は比喩を通じて理解されることになる。もちろん理知的部分、気概的部分、欲望的区分という区分内容は抜粋部分からは読み取ることができず、そもそも魂(ψυχή)という語自体も現れていない。外なる人間を構成する多頭の動物、ライオン、内なる人間がそれぞれ何の比喩であるかは、読み手が想像することになる。抜粋部分は、人間の内部と、不正を行うことと正しいことを行うことがどのようなことなのかを、比喩のみによって描いている。

内容についての注意

荒井献氏の『トマスによる福音書』ロギオン7注釈には以下のように次のように書かれている(p.132)。『なお、プラトンは人間の魂を「多頭の動物」「獅子」(以上が「欲望的部分」)、「内なる人間」(神的部分)の三部分から成るとみなし、人間に、神的部分をもって欲望的部分を「育てて慣らし」、後者を前者に「服従させるよう」に勧めている(『国家』588b-589e)』

ミスリーディングな内容であるので解説する。まず、多頭の動物と獅子が共に欲望的部分に割り当てられているが、590bより獅子的部分が気概的部分に対応する。そもそも、共に欲望的部分に割り当てると三部分にはならず、二部分になる。もしかして時代により多頭の動物と獅子が共に欲望的部分に割り当てられる解釈があったかもしれないが、プラトンの思想の解説としては妥当ではない。「内なる人間」とは、三体の動物をまとめたもの自体が人間の形を纏うことになるので、これと対比させた魂の部分に対応する方の人間のことである(389d)。神的部分と書いてあるのは、389c-dの箇所で登場する表現である。「よき友よ、一般に認められている美しい事柄と醜い事柄というのも、このような理由によって区別されてきたと言えるのではなかろうか?すなわち、美しい事柄とは、われわれの本性の獣的な部分を内なる人間の下にーおそらくはむしろ神的な(θεῖος)ものの下に、というべきだろうがー服従させるような事柄であり、醜い事柄とは、穏やかな部分を野獣的な部分の配下に服従させるような事柄ではないだろうか?」「理知的部分」という用語は第4巻から(440e)一貫して用いられていたので、神的部分よりも理知的部分とした方がよい。引用した589c-dの発言は、テーゼを信じる人を穏やかに説得するためにかける言葉として語られる。この後の590a-cで気概的部分の話が追加される。引用部分はプラトンの比喩を踏まえた内容として読めるが、「一般に認められている美しい事柄と醜い事柄」(καί τά καλά καί αἰσχρά νόμιμα)とあることから、人々の一般的な思われ(通念)について述べ、対話者から同意を得ようとしているとも考えられる。なので文脈が異なるので、この部分が直ちにプラトンの思想の要約として提示できるかどうかは疑問である。

参考文献

引用はすべて藤沢令夫訳を用いた。

Plato, Republic, book 9, section 588b (Greek).

Plato, Republic, Book 9, section 588b (English).

Plato, Republic 588A-589B -- The Nag Hammadi Library

The Gospel of Thomas Collection - The Gnostic Society Library

プラトン全集11 国家、藤沢令夫訳、岩波書店、1976.

トマスによる福音書、荒井献、講談社、1994.

グラウコンとアデイマントスの問い―『国家』第II巻における"Why be moral?"の問題―、中澤務、関西大学哲学 26、pp.203-222、2008. 関西大学学術リポジトリ


  1. 588a-589bと書かれている文献があるが、588bの間違いではないのだろうか。
  2. 第10巻にはイデア論を踏まえた二度目の理想国からの詩人追放論と、死後の世界が描かれるエルの神話が含まれており、比較的独立性が高い。
  3. グラウコンの挑戦については以下の論文を参照。
    グラウコンとアデイマントスの問い―『国家』第II巻における"Why be moral?"の問題―、中澤務、関西大学哲学 26、pp.203-222.