Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

ウマンテラさま問題の判断史料

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熊本県天草市河浦町崎津集落近くで発見された翼のあるウマンテラ様と呼ばれる像が、潜伏キリシタンの作った天使ミカエルと鳥天狗の像のどちらかなのか分かっていないという問題がある1。人間とも天狗ともとれる愛嬌のあるお顔をしている珍しい造形をしている。もし聖ミカエル像を金毘羅権現の天狗に擬態させて作ったのならば、後世ではどちらか全く分からなくなってしまったので、見事で完璧な擬態と言わざるを得ない。この問題が困難であるのは、以下の状況があるからである。

  1. 潜伏キリシタンが天使を天狗に擬態させて像を作ったのならば、像が天使だとしても、天狗の特徴を満たしている。

  2. 同時代の天使像だと確定した石像が伝わっていないので、他の像と比較して判定することができない。そして天使像が満たすであろう(満たすべき)特徴が分からない。

  3. 天草の潜伏キリシタンキリスト教に関する伝承内容を知ることができるような史料が長崎と比べて少ない。

この記事ではキリシタンに関するこの問題の判断材料を思いつく限り挙げていく。この像はひとまず潜伏期に作成されたものだと仮定しておく。

問題解決のための一般論について述べておく。

  • ウマンテラ様がミカエルであることを言うには、ある特徴を取り上げ、その特徴が他の天狗像にはないことを言う必要がある。

  • ウマンテラ様が天狗像であることを言うには、天狗の特徴を満たすだけでは(擬態させたから)十分ではなく、発見場所や他の天狗像との比較により、天狗であることの蓋然性を高めるような説明を提出する必要がある。あるいは像がミカエルであることを否定するような特徴(説明)を挙げることが必要である。

長い潜伏期間の間にそれまで宣教されてきたキリスト教の教義の多くが忘れ去られてしまった。もし潜伏キリシタンがミカエルを知らない可能性が高ければ、像がミカエルだという可能性は低くなる。天草ではなく長崎になってしまうが、伝承されているテキストと絵画から、潜伏キリシタンの伝承を確認する。

テキストから

長崎の外海等の地域に伝えられてきた潜伏キリシタンの作った物語に『天地始之事』というものがある2。これは旧約聖書福音書の一部の物語を含んでいるが、それだけではなく土着の民間伝承や伝説が織り交ぜられている。この物語では天使と天狗についての言及があり、両者がどのように考えられていたかが分かる。また、ミカエルについての言及もある。

宣教師たちはDeus(神)など教義において重要な語を翻訳するにあたって、誤解を避けるために「でうす」のようにポルトガル語ラテン語をそのまま借用した。diablo, diabolus(悪魔)の訳語として、「天狗」を採用した。これは山伏と悪魔を結びつけるという宣教における戦略的な選択の結果である3。ルシファーに唆され、堕天した天使が天狗(悪魔)なのだと説明される (p.383)。

さてじゆすへる(Lucifer, ルシファー)拝みし安所(Anjo, 天使)方、かなしいかなや、みなことごとく天狗となり、中天にぞ下りけり。

もし崎津でも天狗が悪魔だと考えられていたのならば、像を天狗と聖ミカエルの二重の役割として崇拝することはできたのだろうか。

じゆすへるの容姿は「鼻ながく、口ひろく、手足は鱗、角をふりたて、すさまじく有様」と説明されている(p.385)4。この容姿は下で触れる外海地方の絵画に完全に当てはまっている (ibid, p.507参照)。じゆすへるだけではなく、他の天狗もこの容姿と考えられていたかどうかはわからない。

聖ミカエルについては、イエスの死の後で説明されている(p.405-6)。聖ミカエルの名前は訛って三みぎりとして伝わっていた。

役々を極させ給ふ事

三-みぎりは、天秤の御役をかふむり、じゆりしやれん堂(ヨルダン川エルサレムとの結合?)にて、科の次第を御ただしありて、善人はぱらいそへ通し、悪人はいんへるの(inferno, 地獄)に落とし、又、科の次第ゝにて、恥づかしく、科をいましめたもふ事也。たとゑ、善あるものといふとも、天狗これをとらんとする。三-みぎりこれをくれじと、ばんのしう剣(万能の手剣?, 「ばんのしゆけん」とする異本あり)をもつて、天狗をさくる。ふるかとふりやゑ(Purgatorio, 煉獄)へ通したもふという事。此時、達したる後悔するにおいては、いぬへるのをのがしまもふ也。

この箇所で三みぎりの他は、三ぺいとろ(聖ペトロ)と三ぱうろ(聖パウロ)の人間の死後における役割が説明されている。 テキストの記述だけでは天使として理解されていたのかどうかわからない。もし絵や像をもっていなければ、三みぎりは人間(聖人)として考えられていたかもしれない。羽についての記述がないので、この記述のような情報のみから像が作られたと考えることはできない。

絵画から

潜伏キリシタンの受胎告知図では、大天使ガブリエルが描かれているが、見た目は天狗のように見える5。もしガブリエルの部分だけが残っていたら、ウマンテラ様と同じように天使かどうかの論争が起こっていたであろう。

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外海地方のキリシタンが聖ミカエルの絵を所有していたことは分かっている。この情報は天使の容姿を知っていた可能性があるという点で、ウマンテラ様をミカエルとみなすための最も重要な根拠である。

長崎市│外海の出津集落(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産)

⑤外海の出津集落(長崎市) 予言の神父 待ち続け 「日繰り」伝承 教え受け継ぐ | 長崎新聞

ミカエルと思われるお掛け絵も見つかっている。

ミカエルのお掛け絵 長崎・平戸 - YouTube

西洋美術でミカエルの武器は剣の場合と槍の場合のどちらもある。また、天秤を持っている場合と持っていない場合のどちらもある。一見するとミカエルであることを否定するような特徴はない。

潜伏期間にキリスト教に関する多くの伝承が失われていたことから考えると、ミカエルに関する知識は文書と絵画の両方で伝わっており、伝承として恵まれている。

天草の潜伏キリシタン

天草の潜伏キリシタンキリスト教伝承内容は史料不足により想像するしかない。1805年からの天草崩れに関する史料を見る限り、一般に天草潜伏キリシタンの信仰はキリスト教に由来する固有名詞の数が乏しく、現世利益の側面が強く民間信仰化が著しいことから、天草の潜伏キリシタンの間に残っていたキリスト教伝承内容は、長崎のものよりも少ないと考えられる6

まとめ

キリシタン側の史料から言えるのは、潜伏期においても長崎にはミカエルについての伝承が保存されており、天草の潜伏キリシタンがミカエルについて知っていたということは完全には否定できない。つまり、ウマンテラ様が天使である可能性は否定できない。ただし、私見では天草崩れに関する史料を見る限り、時代が下ると天草の潜伏キリシタンの間ではミカエルについての伝承が失われていた可能性は高いのではないかと考える。潜伏期に作成されたならば、禁教から年代的に隔たっていない間に作成されたと考えたい。

もし制作が潜伏期以前だとすれば、その時期にこのような像が作られ得たかということと、天狗と間違えられるような造形にしたことは説明を要する点である。

潜伏期以前でのミカエルに関するキリシタン史料を列挙することはこの記事ではできなかった。別稿で検討したい。

この問題に関する確証となるような情報はないのではないかと思う。どちらと考えたほうがより良いかをより精密に判断するためには、一つの手段としては美術様式から判断する方法がある。キリシタンで似たような天使像はないので、判断のためには天狗像の美術様式の情報が必要となる。判断材料になり得るのは以下である。

国内で時代が近い像で似たような天狗像があるかどうか。

地理的に近い天狗像、あるいは天草市内の天狗像の見た目はどのようなものか。

判断のためにこれらの情報や画像データがあればと思う。

一つ気になった点を挙げておく。二つの羽のそれぞれの後ろの部分は何だろうか。聖ミカエルであればマントに見える7。天狗だとしても衣で説明できるが、他の像で似たような例があるかどうかを知りたい。

ただの天狗像だったとしても、それを天使像として見ることができるということは信仰の歴史の賜物だろう。

参考文献

昭和時代の潜伏キリシタン、田北耕也、日本学術振興会、1954.

日本思想大系25 キリシタン書 排耶書、海老名有道他校注、岩波書店、1970.

かくれキリシタンの聖画、中条忠、小学館、1999.

隠れキリシタン古野清人、至文堂、1978.

キリシタンの神話的世界、紙谷威広、東京堂出版、1986.

『天地始之事』にみる潜伏キリシタンの救済観、宮崎賢太郎、宗教研究、308 号、1996. 308号(70巻1輯) – 『宗教研究』デジタルアーカイヴ

キリシタンと翻訳、米井力也、平凡社、2009.

もう一つの天草くずれ:天草キリスト教史序説、鶴島 博和、比較日本学教育研究部門研究年報、第18号、2021.


  1. 厳密には像の制作者がどちらとして作ったかということと、天使と天狗のどちらとして当時の人々から拝まれていたのかという二つの問題がある。
  2. テキストは海老名有道他校注のものを用いる。以下の項数は同書のものである。カッコ内は記事作者による挿入である。田北(1954)の本文と注釈も参考にした。成立年代については宮崎(1996)で考察された推定年代(18世紀末)を本記事でも想定する。
  3. 紙谷(1986)、米井(2009)を参照。
  4. このじゆすへるの容姿の記述は、天地始之事において欲を表す象徴的な表現でもある。聖書にはない記述だが、うんよく・貪欲・我欲という悪事をなす三人は、「でうすこれをにくませたもふに付、三悪人壱体に、とぢ付、三めんに角はゑ、そのざますさまじく」と説明されている(p.386)。きりんと(キリスト)を裏切って金を受け取った十だつ(ユダ)は、「褒美の金をうけとりて、たちかへる道中にて、にわかに其ざまひきかわり、鼻たかく、舌ながく」なってしまう(p. 399)。
  5. 中条(1999)に載っている舘浦地区に伝存する受胎告知図の二点とも天狗に見える。その内一点がリンク先の画像である。
  6. 主に古野(1978)と鶴島(2021)での説明を参照した。
  7. あるいは模様が違うが別の羽なのだろうか。