Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

『天地始之事』におけるリンボ

この記事では長崎の外海等の地域に伝えられてきた潜伏キリシタンの作った物語『天地始之事』での天と地の構成について、リンボ(古聖所、陰府、辺獄)と呼ばれる場所を中心に読み解いていく1

天と地について有名なのが天国(極楽)と地獄である。これらは内実に差異があるにしてもキリスト教にも仏教にも共通してある考えである。だが時代が下りキリスト教の教義が複雑化する中で、地獄の他にも煉獄やリンボ(古聖所、陰府、辺獄)といった仏教にはない死後の場所の概念が現れた。潜伏期に多くのキリスト教の教義に関わる伝承や用語の意味が忘れられていったが、はたして隠れキリシタンの死後の世界に極楽と地獄以外の場所はあるのだろうか。その問いを考えたい。

リンボとは

リンボは永遠の地獄に行くのではないが、天国に行くための至福を得ていないような人間が行く場所である2。主に父祖の陰府(limbus patrum)と幼児の陰府(limbus infantium)と呼ばれる二つの場所からなる。父祖の陰府とは、キリスト以前に死んだ善人が行く場所である。幼児の陰府とは、洗礼を受ける前に原罪を負ったまま死んだ幼児が行く場所である。リンボはカトリックの教義であり、プロテスタント正教会はこの語を用いない。有名なダンテの『神曲』では、リンボは地獄の第一の圏谷に位置している(地獄篇第四歌)。リンボにいるのはホメロスオウィディウスアリストテレスソクラテスプラトンなど古代ギリシア・ローマの錚々たる顔ぶれである。西洋古典が好きな人はダンテの世界なら天国よりもリンボに行きたいと思うだろう。

地獄について

キリスト教にも仏教にも地獄という考えはある。キリスト教の地獄と仏教の地獄はどのようにして区別することができるだろうか3。それは地獄からの救いがあるかどうか、つまり地獄の責め苦が永遠に続くかどうかだろう。キリスト教では地獄の責め苦が永遠であることの拠点になるような表現が新約聖書に複数見出される(マタ25:41, マコ9:48, 黙20:10)。それに対しザビエルは日本の仏教について、宗派の創始者の名前を唱えれば地獄から救われると報告している(書簡第96, 釈迦や阿弥陀のこと)。つまりキリシタン時代の仏教では地獄からも救われることがあると考えられていた。それでは『天地』での地獄の記述を見てみよう。

三-みぎりは、天秤の御役をかふむり、じゆりしやれん堂にて、科の次第を御ただしありて、善人はぱらいそへ通し、悪人はいんへるの(inferno, 地獄)に落とし、又、科の次第ゝにて、恥づかしく、科をいましめたもふ事也。(中略)

又、人を害するか、自滅しけるものは、此所にて、あらため出され、いぬへりのに落され、末世までたすからざるといふ事、つゝしむべし。

『天地』での地獄についてはリンボと絡めて後に詳細に検討する。

『天地始之事』以外の史料での説明

まず宣教師やキリシタンたちが遺した史料でリンボがどのように現れているかを確認する。

日本布教における決定版とも言える教理問答書『どちりいな-きりしたん』4の「けれど」(Credo)では、キリストが「大地の底へ下り給ひ、三日目によみがえり玉ふ」と使徒信条がそのまま翻訳され5、その「大地の底」の説明の中にリンボが現れている6

大地の底に四様の所あり。第一の底はゐんへるのといひ、天狗を始めとしてもるたる科(大罪)にて死したる罪人等のゐる所也。二には少し其上にぷるがたうりよ(煉獄)とて、がらさを離れずして、死(しす)る人のあにま(魂)現世にて果さゞる科送りの償ひをして、其よりぐらうりあ(栄光)に至るべき為に、其間籠めをかるゝ所有り。三にはぷるがとうりよの上に童(わらんべ)のりんぼとて、ばうちいずもを受けずして、いまだもるたる科に落つる分別もなき内に、死る童のゐたる所也。四には此りんぼの上にあぶらん(アブラハム)のせよ(ceo, 天)と云所有。此所に古来の善人達御出世を待ちゐ奉られたる所に、御主ぜず-きりしと(イエス・キリスト)下り給ひ、彼さんとす(聖人)達のあにまを此所より召し上玉ふ也。

『スピリツアル修行』内の『御パッションの観念』ではリンボが善人が留まる場所の意味で用いられている7

尊き(キリストの)御アニマ・ヂビンダアデ(神性)共に直にリンボへ下り給ひ、限りなき望みを以てこの日を待ちかね申されし、古来の善人たちのアニマにゴラウリヤの尊体を現はし給ふを以て喜ばせ給ひ、尊き御死骸は同じヂビンダアデ共に石棺に収められ給ふものなり。

以上より、リンボについての教義は日本に伝えられていたことが確認できる。

『天地始之事』本文の検討

田北(1954)と海老名(1970)はどちらも「善本」と呼ばれる写本を定本としている。田北(1954)は善本にはなく「松尾本」と呼ばれる写本にはある付加異文も乗せている。この記事では【-】内でその異文を記す。

海老名(1970)の冒頭本文は以下の通り。

そもそもでうすと敬[ま]い奉るは、天地の御主、人間万物の御親にて、まします也。弍百相の御位、四十弍相の御装い、もと一体の御光を、分けさせたもふ所、すなはち日天也。

それより十二天をつくらせたもふ。其名べんぼう、此所地獄也。まんぼう・おりべてん・しだい・ごだい・ぱつぱおろはこんすたんちほらころてる・十まんのぱらいそ、此所則ごくらくせかい也。

それより日月ほしを御つくり、数万のあんじよ思召すまゝに、めしよせたもふ也。

田北(1954)の十二天部分の本文は以下の通り。

それより十二天をつくらせたもふ。其なべんぼう、此所【いぬへると申す】地ごく也。まんぼう【とは此世界なり。】・おりへてん・しだい・ごだい・はつは・おろは・こんすたんちのほら・ころてる・十まんのぱらいそ、此所【十万里四方びた一面にてつゆには夜るなし】則ごくらくせかい也。

冒頭部分は特に著者の仏教に関する素養が色濃く現れており、その素養の中にキリスト教に関する伝承を巧みに混ぜ込んでいる。十二天については「ぱらいそ」以外の語の意味を確実に理解することはできないが、これらが元々何の語に由来しているのかについては、田北(1954)は以下のように対応付けをしている。

  • 「べんぼう」はLimbo(リンボ)

  • 「まんぼう」はMundo(世界)

  • 「おりへてん」はオリベ天でオリベト山に由来した語

  • 「おろは」はコロナ(冠、ロザリオ)

  • 「こんすたんちのほら」はコンスタンチノープル

  • 「しだい」「ごだい」「はつは」はアニュス・デイに由来する「アネステー様」(アネステーの功力の次第)というオラショの文句が物語に割り込んだもの8

  • 「ころてる」は「アネステー様」にある「此くりきは、よのかかりてのくりき、ころてると名をつけ奉れば・・・」とある功力の名前。

海老名(1970)は正しくも「ころてる」が本文内でエデンの園を指す語として用いられていることを指摘している9。『天地』では「ころてる」はエデンの園のことと考えるべきである。海老名(1970)も「べんぼう」をLimboのこととしている。

十二天の記述で気になるのが「其名べんぼう、此所地獄也」と、べんぼうが地獄であると書かれている点である。松尾本の挿入だとべんぼうはインフェルノ(地獄)の別名だと解釈される。二通りの解釈が可能である。「ベンボーは地獄の一種である」という解釈とベンボーはインフェルノの別名だという解釈である。ベンボーは永遠の地獄であるのか、それとも一部には救いがあるような地獄であるのかということが問題になる。

他のべんぼうが現れる箇所を見よう。ノアの方舟と民間伝承が融合したような話の最後で次のように述べられる。

波におぼれて死ゝたる数万の人々、べんぼうといふ所、前界の地獄、此所におちける。

べんぼうは「前界の地獄」と言われているが、この「前界」の解釈が難しい。空間的により天に近い(手前にある)ということだろうか。

舟で家族七人のみが生き残り、そのあと人間が増えるが、「うまれて死するもの、ことごとくみなべんぼうにぞ落ちける」とされる。デウスはこれを哀れんで助けるために自身の身を分けて、イエス・キリストが現れることになる。

キリスト以前の人間がリンボに落ちるのは父祖の陰府の教義と整合している。

幼児の陰府の用法はないだろうか。幼児については次のようにある、「先年、よろうてつ(ヘロデ)に殺されし、数万の幼子、ころてる(エデンの園)に迷いいるを、御身名をさづけたまいて、ぱらいそに引き上げたまいけり」。

また、田北(1954)は1932年6月7日太郎八爺の「ゼスキリストの前、極楽の蓋のあかぬ前は、死んだ人はコロテルやビンボウ(リンボ)に居た」という貴重な証言を載せている(p.85)。

よって幼児の陰府はなく、『天地』でのリンボは父祖の陰府と一致している。長崎の伝承では幼児はリンボではなくエデンの園に行くことになっていた。地獄であるリンボよりも元々アダムたちがいたエデンの園に幼児たちが送られるという伝承は、長崎の人々の素朴な優しさに溢れたキリスト教教義の変奏だろう。

最後の審判にあたるこの世界の終わりには、次のように説明される。

かくて天帝(デウス)は、大きなる御威光・御威勢をもつて、天くだらせたまひて、道を踏みわけ、御判(洗礼の時に額に十字を額に記すこと)をうけしもの、三時の間に御選め、かなしいかなや、左のもの、ばうちすまうさづからざるゆへ、天狗とともにべんぼうという地獄にぞおちければ、御封印ぞなされけり。此所にをちたるものは、末代浮からずといふ事、又、ばうちすもふさづかりし右のものは、でうすの御供して、みなはらいぞへまいりたる。

ここでのリンボは死後の一時的な場所ではなく、インフェルノの意味で用いられている。

『天地』にもCredoの対応箇所はある、「せすたの日、御身大地の底にくだらせたまい、さばと(土曜日)の日まで、御逗留ましまして、御官の上にましますを、あまたの弟子、これをおがむ」。この文言では大地の底で死者を救うことが明言されておらず、大地の底がリンボなのかどうかも明らかではない。

以上で言及箇所を検討した。「べんぼう」は父祖の陰府の意味で使われているが、それだけではなく最後の審判の場面ではインフェルノと同じ地獄を指すものとしても使われている。ベンボーは永遠の地獄なのかそれとも一部の人間には救いのある地獄なのかという問題に戻ろう。そもそもベンボーだけでなくインフェルノは永遠の地獄と理解して良いのだろうか。『天地』では「末代」や「末世」という有限である可能性を残す語を使っているので、永遠であると断定することはできない。よって永遠か有限かの二択には明確には答えられない。ただしインフェルノから救われる記述はない点と輪廻に関する記述がない点は永遠だと考える論拠になる。ベンボーは二重の役割を持っている点からも、単純に二択のどちらであるかという問い自体が適切な問いではなかったと言える。

ベンボーの二重の役割について何が言えるだろうか。記事著者は『天地』でのベンボーの役割は、インフェルノの別名としての地獄としての役割の方が優先されているのではないかと考える。その理由はベンボーに落ちた人間がパライソに引き上げられる記述が存在せず、わざわざ最後の審判の場面でインフェルノではなくベンボーの方が使われているからである。松尾本の付加部分も根拠となる。幼児がベンボーではなくコロテルに行くのは、ベンボーが永遠の地獄であるから幼児だけは地獄行きにしたくなかったという隠れキリシタンによる意図的な変更だという推測も可能である10

ベンボーの二重の役割が生じたのは、本来のリンボの役割が重要視されなかった故に、リンボがインフェルノに吸収される形となったからである。詳しく検討説明はしなかったが、この『天地』の物語全体は隠れキリシタンの習俗の由来を説明してくれるような物語である11隠れキリシタンである自分たちや隠れキリシタンの信仰と習俗を守ってきた先祖たちが救われることを説明することが、この物語が生み出された原動力である。隠れキリシタンの信仰と習俗を持たない人々が救われるかどうかということは、そもそもこの物語の射程外だったのではないだろうか。

補論 十二天の12という数について

個々の語の意味だけでなく、十二天の12という数についても問題がある。田北(1954)は「「こんすたんちのほら」はコンスタンチノープルに通ずるが、「こんすたんち、ほら」と二つに区切って始めて、天の名が十二になる」と説明する。「こんすたんち」と「ほら」に分けている写本もあるようだが、「こんすたんちのほら」を分けずに数えると以下のようになる。

  1. べんぼう、2. まんぼう、3. おりべてん、4. しだい、5. ごだい、6. ぱつぱ、7. おろは、8. こんすたんのちほら、9. ころてる、10. ぱらいそ

明示的に書かれていないが、田北(1954)は「十二天も仏教の言葉で、「日天」はその一つであるが」と書いていることから、十二天に日天を含めて、足りない一つを分割によって数合わせしていると思われる。海老名(1970)はその解釈を受け継いでいる。

仏教での十二天について確認しよう。『仏教語大辞典』では十二天は次のようにある。

一切の天竜・鬼神・星宿・冥官を統すべる十二の仏法守護の護世天。四方・四維の八天に、上下の二天および日・月の二天を加えたもの。東に帝釈天、東南に火天、南に閻魔天、西南に羅刹天、西に水天、西北に風天、北に多聞天毘沙門天)、東北に伊舎那天大自在天)、上に梵天、下に地天、および日天、月天の総称。

他に考えられる解釈を列挙してみよう。十二天に日天を含めるとする。残る一つの候補として、仏教のように月天を含めるという方法がある。難点は日天がでうすならば月天がどの神なのかが不明なのと、『天地』本文中に月については上に引用した「それより日月ほしを御つくり」としかないことである。別の解釈は松尾本に言及される地獄である「いんへるの」を加えることである。「いんへるの」は『天地』本文中に登場する。難点はなぜ十二天の列挙の中に明示的に書き加えられていなかったのかが説明できない点である。

十二天に日天を含めることはそもそも妥当だろうか。仏教では天は神と空間の両義で用いられている。『天地』での用法では、日天はデウスという神であるのに対し、パライソや上記の対応での他の語(意味不明瞭なしだい、ごだい、ぱっぱを除く)は場所(空間)を表す語として用いられており、カテゴリーが違う点が無視されているという点に問題がある。列挙に日天が言及されていない問題もある。上で列挙した10個に上天と下天を加えて12とするという解釈が可能である。この解釈の難点は『天地』本文には上天と下天が登場するが、それだけではなくゑわ(エバ)と天狗が送られる中天もあるので、合計13になってしまう点である。中天だけ除外するのは恣意的であるが、仏教の十二天に合わせて上天と下天のみを加えたと考える。

どの解釈も難点を抱えているが、『天地』での十二天はすべて場所とするのが良いと考えるので、場所である上天と下天を加える解釈を記事作者は取る。

参考文献

昭和時代の潜伏キリシタン、田北耕也、日本学術振興会、1954.

日本思想大系25 キリシタン書 排耶書、海老名有道他校注、岩波書店、1970.

きりしたんのおらしよ キリシタン研究第四十二輯、尾原悟、教文館、2005.

聖フランシスコ・ザビエル全書簡3、河野純徳訳、平凡社、1994.

神曲 地獄篇、平川 祐弘訳、河出書房新社、2008.

中世キリスト教と仏教における地獄の恐怖、多ヶ谷 有子、関東学院大学文学部紀要、128号、pp.21-41, 2013.

キリシタンと翻訳、米井力也、平凡社、2009.


  1. 『天地始之事』の引用は海老名(1970)のテキストを用いる。丸括弧は記事著者による説明的挿入である。『天地始之事』は『天地』と略記する。入力の都合上、繰り返し文字は用いていない箇所がある。
  2. The Oxford Dictionary of the Christian Church, 3ed editition, 2005を参照した。
  3. もちろん仏教とキリスト教共に、時代や宗派によって同じ宗教内でも地獄の思想は大きく異なる。ここでは概略的な区別のみを問題にする。より詳しくは多ヶ谷(2013)を参照。
  4. どちりいな-きりしたんにおけるinfernosの翻訳については米井(2009) pp.161-169を参照。
  5. ラテン語原文inferusの訳として「大地の底」が使われている。
    Symbolum Apostolicum - Wikisource
    使徒信条 | カトリック中央協議会
  6. 『吉利支丹心得書』での対応箇所は同内容。『ばうちずもの授けやう』では以下のように若干異なる。
    「おりじなる科(原罪)斗(ばかり)を受くる幼き者も、ばうちずも(洗礼)を授からずして死すれば、苦もなく楽もなき、りんぼといひて、いつまでもでうすを拝み奉る事なき所へ落つる也」
  7. 寛政年間に没収された『耶蘇教叢書』の中にある写本でCredoについての問答である『けれどの第一ケ条』でも大地の底の説明でリンボが(古来の)善人たちのいる所として説明されている。
    「此トコロニアツマラセタゼン人タチノアニマヲ、コトゴトクメスケタサレ(召し出され)、ソレゾレニゴロルヤ(栄光)ノ御ケラクヲトカサセンカタメナリ」
  8. 田北(1954)のp.84を参照
    「アニュス・デイから転じた「アネステー様」と云う旧信者の大切にして居るオラショがあり、その写本の一つは冒頭に「あねすてー様のくりき、四だい、五だいめのあつぱうら、こんすたんちのほらと云う処のくりき・・・」と記し、別の写本には「あねふすでーりのくりきのしだい」と題して、本文が「ごだいめのはつは様、おろはのこんすたんちのほらとゆうところのくりき・・・」となって居る」
  9. 「じゅすへる(ルシファー)これをきくより、ゑわ・あだんをたばかりとらんと、ころてるにいそぎける。」の箇所と思われる。
  10. アダムの罪が最終的にオラショによって許されるという『天地』での原罪観から、生まれたばかりの幼児に罪がないことも影響している。
  11. パライソに行くためには水授け(洗礼, ばぷちずもう)が最も重要な役割を担っている。