Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

キリシトの御パツシヨンのこと: 四福音書との照合

はじめに

キリシタン時代の日本語訳聖書は失われてしまったが、聖書の部分訳は現存する。その一つが『スピリツアル修行』に含まれる「御主ゼズ キリシトの御パツシヨンのこと」である。このテキストは「これ四人のエワンゼリシタ記録のうちより選び集めて翻訳せしものなり」とあるように、四福音書全てを用いてイエス受難の部分が編集されたものである。海老沢有道氏の注釈に四福音書の対応部分の記載がある箇所もあるが、より細かくどの箇所でどの福音書を用いているかを比較照合する1

テキストはスピリツアル修行、キリシタン文学双書 キリシタン研究第三十一輯 、海老沢有道 編著、教文館、1994を使用した。 佐藤研編訳の福音書共観表の区切りごとに、『御パツシヨンのこと』テキストに対する四福音書の対応箇所を記載した。『御パツシヨンのこと』を単に「御」と略記した。現代のテキストとの違いとして、御の翻訳はギリシア語聖書ではなくウルガタを基としているので、ギリシア語聖書と異同がある場合は記載した2

特徴

  • マタイ福音書が最も多く用いられているように思われる3

  • ヨハネ独自箇所の話はテキストの範囲ではすべて組み込まれている。

  • ルカ独自箇所の話については22.35-38以外はすべて組み込まれている。

  • とても奇妙な終わり方をしている。Finisとあるので最終部分に欠落があるわけではない。

  • エスの復活と顕現がない。復活予告は御の最後の箇所で第三者によって語られる。復活物語がない点はマルコ福音書に近い。

比較照合

殺害計画 マタイ26.1-5.

塗油 マタイ26.6-13.

ユダの裏切り マタイ26.14-16 「銀銭三十文と約束す」御, vulgata. 「銅銭三十枚を支払った」 NA.

過越の準備 マルコ14.12-14 (〜家の主に). 「ゼズスみ弟子二人に宣く」御:「自分の弟子の中の二人を遣わす。そして彼らに言う。」の縮約。マタイ 26.18-20 (師匠〜).

ある弟子の裏切りを予告 マタイ26.21-25 (〜ゼズス御辺云はるると宣ふなり). 「食べている時、彼は言った」の後に「我パツシヨン〜あるべからず。」ルカ22.14-15が挿入されている。マタイ26.24は御では「スキリツウラに見えける如く」と旧約聖書からの引用としている。

仕える者に ルカ22.24-27. 「異邦人たちの王」は、御では「人間の帝王」となっており、意味が変わっている。

十二の部族へのさばき ルカ22.28-30.

躓き予告(1) ルカ22.31-32. ペトロの死ぬ覚悟への宣言とイエスによる躓きの予告は、イエスの洗足と食事の話が途中に挿入されるので、後で述べられる。

象徴行為としての洗足 ヨハネ13.1-5.

象徴行為の説明 ヨハネ13.6-11 既に体を洗った人(vul. lotus)は御では「潔き人」となっている。

エスの誡め ヨハネ13.12-15. ヨハネ13.12-20のひと続きの誡めは途中までしか用いられず、最後の晩餐の話に移行する。

食事とイエスの死の意味 マタイ26.26-29. 26.26[神を]祝しては御では「文をとなえ」。「新しきテスタメント」御, ウルガタ. διαθήκη(契約) NA.

ケドロンの園へ ヨハネ18.1. この挿入が必要な理由は、ルカ22.31-32の後に挿入があったので、躓き予告を行う場面が必要となったからだろうか。

躓き予告 (2) マタイ26:31-35. ただしマタイ26.33の代わりにルカ22:33が用いられる。ルカではなくマタイが主に用いられている点に注意(ルカ22.31-32はルカのみ)。ケドロンの園が舞台なのでオリーブ山への言及は削除。「[私は]羊飼いを打つだろう」は御では「パストル傷を蒙らん時」。

ゲツセマネ マルコ26-33, マタイ26:37-46. 平行箇所がないルカ22.43-45がマタイ26.33の後で挿入される。ただしマタイ26.37の一部で代わりにマルコ14:33が用いられている。この箇所はマタイとマルコで共通箇所がかなり多い。 「われオラシヨせん間」マタイの「向こうへ」(illuc)がないのでマルコ。マタイの「ペトロとゼベダイの二人の子」の代わりに、おそらく分かりやすさのためにマルコの「ペトロとヤコブヨハネ」が用いられる。「恐れ悲しき御心を受け始めた給ひて」に「悲しみ」の内容があるのでマルコが使われている。「悲しみの余りに両目重くなりて」ルカ22.45。だが、マタイ・マルコでは弟子を一度起こして訓戒するのに対し、ルカではそれがないという文脈の違いはある。弟子たちが再び眠っている場面でルカが用いられている。マタイ26.44は「ゼズス 汝達何とて眠られけるぞ? 立ち上りて番せられ[よ]と宣ひ」に変えられている。ルカ22.43-45はルカ以降の挿入部分と考えられている。もちろんウルガタにはこの箇所がある。

逮捕 マタイ26.47-49. マタイ26.47後にヨハネ18.3-9が挿入されている. ルカ22.48. ヨハネ18.10-11. マタイ26.52-56 マタイ26.54の後でルカ22.51の癒しの挿入 マタイ26.56部分でルカ22.53も使用 マルコ14.51-52。この箇所は四福音書すべてが用いられており複雑である。各福音書の独自内容がかなりの程度マタイに挿入され構成されている。「如何に親しき仲 何の故にか来られけるぞ?」はウルガタのマタイ26.50にある:「イエスは彼[ユダ]に言った。あなたは何のために来たのか。すると彼ら[ユダヤ人たち]は近寄ってきて、イエスに手をかけ、彼を縛った」。「人の子」というメシア的な用語が、御では「ビルゼンの子」4ユダヤ当局による裁き ヨハネ 18.12-16 ヨハネ18.19-24 マタイ17.1 マルコ14.54 マタイ26.60-66 一部はマルコを使用している。 「さればジユデヨら」ヨハネよりマルコ26.57の方が近いか。ヨハネ18.14は用いられていない。「遙かに隔たり」マタイ26.58。「ある二人進み出て申掛けらるる虚説には」マルコ14.17. 「この二人の証拠も正しからねば」マルコ14.59. 「重ねてサセルドウテスの司」マルコ14.61. 「尤も殺さずして叶はぬ人なりと」マルコ14.64.

エスへの暴行 マタイ26.67-68. 「ご両眼を結ひふさぎ」マルコ14.65, ルカ22.64.

ペトロの否み マタイ26.69-75. マタイと異なる箇所を以下に記す。「火にあたって居られけるに」マルコ14.67, ルカ22.56. 「別の下女」これはマタイのみ。「ややあって耳を放されけるポンチヒセの郎等の一族」ヨハネ18.26. 「ゼズス ペドロを見返り給へば」ルカ22.61.

ピラトゥスへの引き渡し マタイ27.1-2. 「彼に対する協議をした」の部分で協議の内容として、御ではマタイ26.62-66の部分が繰り返される。

ユダの死 マタイ27.3-10.

ピラトゥスの尋問 (1) ヨハネ18.28-38a ルカ23.4-5. ピラトゥスの尋問部分はルカがベースでヨハネの対話部分を挿入している。

ヘロデ・アンティパスのもとで ルカ23.6-11. 「白き衣装」御, albus ウルガタ, λαμπρός NA. ヘロデとピラトゥスが友人になったことは省略されている。

ピラトゥスの尋問 (2) ルカ23.4-15 マタイ27.12-14.

エスかバラバか マタイ27.15-23. 「盗みをし、人を殺し、隠れなきバラバス」,「バラバは強盗であった」ヨハネ18.39 「悪名高い」マタイ27.16 「反乱と殺人とのかどで」ルカ23.19. 「過ぎし夜その善人につき様々の難儀を堪えつることあり」夢に当たる語がない。

十字架刑の確定 マタイ27.24-26. 「十字架につけるため」は省略されている。

兵士たちによる嘲弄 マタイ27.27-30 右手に持たせた葦は御では「竹」

再度の無罪宣言 ヨハネ19.4-7

ピラトゥスの権力についての対話 ヨハネ19.8-12.

死刑要求の貫徹 ヨハネ19.13-15. 「そこ退け給へ そこ退け給へ」ヨハネ19.15「殺せ、殺せ」。

ゴルゴタへの道 マタイ27.31a (マルコ15.20a) ルカ23.26-32. 「クルスを担げさせ奉り」ヨハネ19.17「彼[イエス]は自分で十字架を担い」。「彼[シモン]を傭い」マタイ27.32またはマルコ15.21。「大山に向って如何に山 わが上に覆ひかかれ」ルカ23.30 『山々に向かっては、「我々の上に崩れ落ちよ」、丘に向かっては、「われらを覆い隠せ」』の縮約。二人の強盗については省略されている。

十字架刑 十字架上のイエス マタイ27.33-38 マタイ27.37 ヨハネ19.23-24 ルカ23.34 マタイ27.40 マルコ15.31-32a. 「カルワリヨの山」ウルガタ「カルウァリアにある場所であるゴルゴタ」。「されば罪人の如くに〜加えられ給ふ」マルコ15.28, イザヤ53.12 ウルガタにはあるがNAでは削除されている。 「エブライカ、ゲレカ、ラチイナ」ヨハネ19.20. ルカ23.34はウルガタにあるがNAにはない。

二人の強盗 ルカ23.39-43.

エスの母に関する逸話 ヨハネ19.25-27.

エスの最後 ヨハネ19.28-30 ルカ23.46の最後の言葉を挿入 マタイ27.51-54。「その場に在合ひける者共、胸を叩きて帰るなり」ルカ23.48.

十字架刑の証人たち マルコ15.40-41 女性たちのリストはマルコに一致する。

死の確認 ヨハネ19.31-36

埋葬 ヨハネ19.38-42. 「ジヨセフとて善者あり」ルカ23.50. 「頼母しく思ふ人なり」ルカ23.51. 「強き心を以って」マルコ15.43. 「はや死し給ふか〜遣はすなり」マルコ15.44-45.

墓の警備 マタイ27.62-66. 復活予告は受難物語の前にあるので、この箇所は復活予告の代わりを果たしている。

参考文献

スピリツアル修行、キリシタン文学双書 キリシタン研究第三十一輯 、海老沢有道 編著、教文館、1994.

新約聖書新約聖書翻訳委員会訳、岩波書店、2004.

福音書共観表、佐藤研 編訳、岩波書店、2005.

ウルガタ, SECUNDUM MATTHEUM 26 - Biblia Sacra Vulgata (VUL) - Bibelwissenschaft

御主ゼズキリシトの御パッションの事-キリシタン訳聖福音書の一例-、海老沢有道、聖心女子大学論叢2、pp. 51-76、1952. 聖心女子大学学術リポジトリ

ギリシア語彩色共観表、佐藤研 編 http://www.rikkyo.ne.jp/~msato/sub3jp.html

和訳史01|キリシタン時代の初期の聖書 - 日本聖書協会ホームページ

バレト写本所収福音書抄註解(1)、鈴木広光・梅崎光・青木博史、文學研究 94、pp.1-29、1997. バレト写本所収福音書抄註解(1) - 九大コレクション | 九州大学附属図書館

バレト写本所収福音書抄註解(2)、鈴木広光・青木博史、文學研究 95、pp.1-29、1998. バレト写本所収福音書抄注解(2) - 九大コレクション | 九州大学附属図書館

バレト写本所収福音書抄註解(3)、鈴木広光・青木博史、文學研究 96、pp.1-13、1999. バレト写本所収福音書抄註解(3) - 九大コレクション | 九州大学附属図書館


  1. バレト写本の福音書翻訳に関する比較については鈴木他(1997)、 鈴木・青木(1998)、鈴木・青木(1999)を参照。
  2. 翻訳元となったウルガタのラテン語本文については本記事では考察せずに、Weber-Gryson Vulgate版を参照することにする。また、ポルトガル語訳聖書についてはこの記事では考慮しないことにする。
  3. ただし、マタイとマルコは一致度が高い。比較照合ではマタイとマルコがほぼ共通している場合、マルコのみ記載している箇所がある。最も用いられているのをマルコではなくマタイとしたのは御との細部における一致度による。また、三福音書以上が用いられておりどの特定の福音書を基にしているのか判別が困難な箇所もある。
  4. 「人の子」が「ビルゼンの子」と翻訳されていることについては次の論文に詳しい。
    ビルゼンの子-キリシタン聖書翻訳の方法, 米井 力也, 国語国文, 京都大学文学部国語学国文学研究室 編, 59 (5), pp.1-18, 1990.