Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

パンの講話: ヨハネ福音書6.32の解釈

ヨハネ6.32

εἶπεν οὖν αὐτοῖς ὁ Ἰησοῦς· ἀμὴν ἀμὴν λέγω ὑμῖν, οὐ Μωϋσῆς δέδωκεν ὑμῖν τὸν ἄρτον ἐκ τοῦ οὐρανοῦ, ἀλλ’ ὁ πατήρ μου δίδωσιν ὑμῖν τὸν ἄρτον ἐκ τοῦ οὐρανοῦ τὸν ἀληθινόν·

[NRSV] Then Jesus said to them, “Very truly, I tell you, it was not Moses who gave you the bread from heaven, but it is my Father who gives you the true bread from heaven. (あなたがたに天からパンを与えたのはモーセではない。あなたがたに天からまことのパンを与えるのは私の父である。)

[新共同訳] すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。

[新約聖書翻訳委員会訳(小林稔訳)] すると、イエスは彼らに言った、モーセがあなたがたに天からのパンを与えた[、そしてあなたがたがそれを持っているという]のではない。私の父があなたがたに天から本物のパンを与えつつある。

小林訳のこの箇所に関する注釈で、天からのパンは律法を意味すると説明している。本記事ではこの解釈の根拠について考察する。以下ではモーセが天から与えたとされるパンはマナと書くことにする。マナは以下の特徴を持つ。1.マナは預言者モーセの行ったとされる徴である(6.30-31)。2.マナを食べた父祖は死んだ(6.49)。出エジプト記より、3. 四十年間荒野での食糧であった(出16:35)、つまり人々がそれによって生きた(命を繋いだ)ものである。

最初に「天からの真のパン」について考察しよう。

「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6.33-35)

「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(6.47-51)

「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(6.57-58)

6.51等で明確に天からの真のパンはイエス・キリストであることが述べられる。よって、天からの真のパンは将来に与えられるのではなく、現在既に与えられていることになる。そして、イエス・キリストを通じて永遠の命が与えられるので、二次的に天からの真のパンが永遠の生命の比喩だと解釈し得る。また、マナを食べた父祖が死んだということは、父祖が永遠の命を得ていなかったということを意味する。

小林稔氏は6.35に次の注釈を付けている。「ここでの約束は箴九5、シラ書二四21を前提にしているようである1。とすると、知恵とイエスが重ねられていることになり、これと対照される32節の「モーセが天から与え、ユダヤ人が持っているパン」は律法を意味することとなろう(バルク書四1参照)。」

バルク書4.1は以下のようになっている。

「知恵は神の掟の書、永遠に続く律法(νόμος)である。これを堅く保つ者は皆、命に至りこれを捨てる者は死に至る。」(バルク書4.1)

ここでは知恵が永遠に続く律法だと述べられており、知恵と律法が対比されているわけではない。マナと真のパンの両方が律法だということになってしまうので、解釈の根拠として不十分である。

ヨハネ福音書内で根拠となり得る二箇所を以下で検討する。

ヨハネ1.17

「私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理(ἡ χάρις καὶ ἡ ἀλήθεια)はイエス・キリストを通して現れたからである。」

恵みと真理に永遠の命が含まれているならば、6.32に適合する。ただし、「恵み」と「真理」のヨハネ内での言及箇所が少ないことから2、恵みと真理をどう解釈すれば良いのかは明確ではない点が難点である。真理については、ヨハネ14.6「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」で、真理と命が並置されている。

根拠としてもう一箇所検討しよう。パンの講話の少し前にある5.39である。

ヨハネ5.39

あなたたちは聖書(γραφά)の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

律法(律法書、聖書)が永遠の命を与えるではなく、イエスが永遠の命を与えるということである。ここでは永遠の命に関して、聖書(律法)とイエス・キリストが対比されている。

パラフレーズ

マナの特徴より、6.32を(a)のように読むことができる。マナを律法と解釈し5.39を用いると、6.32は(b)のように読むことができる。

(a)「父祖の命をあなたがたに与えたのはモーセではなく私の父である。さらに、私の父は私を通じて永遠の命をも与える。」

(b)「永遠の命を与えると考えられている律法をあなたがたに与えたのはモーセではなく、私の父である。さらに、私の父は真の永遠の命である私をあなたがたに与える。」

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新共同訳

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ギリシア語原文(NA28)

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特に明記していない聖書からの引用は新共同訳を用いている。


  1. 箴言9.5では女性として擬人化された知恵が次のように語る、「さあ、私のパンを食べなさい。そして、私の混ぜ合わせた葡萄酒を飲みなさい」。シラ24.21では擬人化された知恵が自分を様々な木に例え、次のように語る、「私を慕う者たちよ、私のもとに来て私の実で腹を満たすがよい。私の思い出は蜜よりも甘く私の遺産は、蜂の巣から滴る蜜よりも甘い。」
  2. 「恵み」はヨハネでは1章にしか現れていない。