Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

「小人島」再考

瀬川拓郎氏の『アイヌ学入門』を読んだがアイヌの歴史を文化の交流史として描き出しており、過度な理想化がされていない点で、より現実的なアイヌ像の理解に資する内容だった。

その中で第三章 伝説ー古代ローマからアイヌへーでは驚くべき事実が明らかになったとして以下のように書かれている点が気になった。

「小人には北千島アイヌという実在のモデルがいたこと。北千島アイヌの奇妙な習俗にかんする一種のうわさが、日本の中世説話の影響を受け、十五〜十六世紀にアイヌのあいだで小人伝説として語られるようになったこと。その中世説話の小人伝説は、もとをたどればプリニウスの『博物誌』の記事が中国から日本を経てアイヌに伝わったものであり、そのためアイヌの小人伝説には『博物誌』の記事と同じモティーフがみられること」(pp.137-138)。

アイヌの小人伝説がプリニウス起源であるという記述には誤解があると私には思われる。この記事ではアイヌの小人伝説とギリシア・ローマでの小人伝説の関係について再確認していく。だが、記事著者が新たな事実を付け加えようというのではなく、先行研究の鈴木(2006)の説明をなぞりながら整理していくだけである1

鈴木(2006)は「江戸時代の世界地理知識の情報源は、おおよそ『三才図会』、中国天主教宣教師の漢文著作、蘭学の三つ系統に分かつことができる」(p.150)と分類している。

宣教師の漢文著作で重要なものはマテオ・リッチの『坤輿万国全図』である。プリニウス『博物誌』の記述と『坤輿万国全図』の記述はほとんど同じである(鈴木 2006 p.152)2。江戸時代の小人伝説の情報源が『坤輿万国全図』であるならば、比較的簡単にプリニウス由来が主張できるが、実際はそうではない。鈴木(2006)によると次のような事情である(p.153)3

「このようにギリシア・ローマの古典に遡る「鶴と闘う小人(ピュグマイオイ)」の話は江戸時代のいくつかの文献に散見されるが、それらはほとんどイエズス会士の漢文著作や蘭書などから海外情報を知り得る立場にあった知識人たちの著作に限られる。この情報が海外異聞という文脈から離れて、広く利用されたり、知らされたりした形跡はほとんどない。小人と鶴が登場するという点では共通するけれども、近世人にとって「常識」であったのは、お話としてよくできた『坤輿万国全図』の漢文注記によるものではなく、『三才図会』の「海鶴遇而呑之、故出則群行」といういたってシンプルな記述にもとづくものであった。」

『三才図会』の記述はどの史料に依っているのかを見ていく。

『三才図会』の前半「海鶴遇而呑之」の分析

『三才図会』は元の周致中による地理志『異域志』「小人国」の「山海経日東方有小人国、名日竫、長九寸、海鶴遇而吞之(以下略)」をそのまま襲っている(鈴木 2006 p.153)4。『異域志』の「海鶴遇而呑之」の部分は『山海経』にはなく、『神異経』の「唯畏海鵠、過輒吞之」に材を得たものと鈴木(2006)は推測している(pp.153-154)。『山海経』に『神異経』が接続された背景として鈴木(2006)は『括地志』などに記載された「鶴に食われる小人」の話が念頭にあった可能性を想定している(p.154)5

『三才図会』の後半「故出則群行」の分析

「故出則群行」は先行する文献に見えない『三才図会』独自のものである(鈴木 2006 pp.154-155)。鈴木(2006)はこの記述を、うまく小人を図像化するための仕組みとして付け加えられたと推察している(p.155)。三才図会での小人国の話が広まった背景として異なるメディアである「万国人物図」6との結びつきがあり、三才図会の情報は図を説明するのに適しているために広まったのである(pp.156-157)。

アイヌの小人伝説

瀬川(2015)は『勢州船北海漂流記』の記述を原型に近いと見られる最も重要な史料として挙げる。この記述が日本側史料で最も古く重要である点は妥当である。鈴木(2006)は米井(2003)と同じく1605(慶長10)~1673年(寛文13)の記録をまとめた『談海』の記述を検討している。内容から判断すると『談海』の記述は『勢州船北海漂流記』の記述を大元の情報源としている。『勢州船北海漂流記』の記述も『談海』の記述も細部を除けばほぼ同じであるので同様の分析が成り立つ。それぞれの記述を転記しておく7

勢州船北海漂流記

蝦夷人物語申候は小人島より蝦夷へ度々土を盗みに参り候、おとし候得ば其儘隠れ、船共に見不申候由、蝦夷より小人島迄航路百里も御座候由、右の土を盗みて鍋にいたし候由、尤せいちいさくして小人島には鷲多く御座候て、其人通り候得ば鷲に取られ申候。又大風に吹ちらされ申候故、十人斗手取り合ひ往来仕候由、蝦夷人語り申候以上

談海

蝦夷人物語申候ハ小人島より度々ゑぞへ土を盗に参申候をとらへ候へは其儘隠かくれ舟共ニ見へ不申候由そのぬすみニ参候処の行程ゑそ路より舟百余里御座候由右之土を盗候而鍋ニいたし申候由承り申候尤せいちいさくして小人嶋ニハ鶴多御座候ニ付其嶋人独なと通り候へは鶴ニとられ申候又風ニ吹ちらされ申候故五人或十人も手を取り合往来仕候由ゑぞ人語申候事候

米井(2003)は後半部分「尤せいちいさくして小人嶋ニハ鶴多御座候ニ付其嶋人独なと通り候へは鶴ニとられ申候又風ニ吹ちらされ申候故五人或十人も手を取り合往来仕候由ゑぞ人語申候事候」には『三才図会』などの知識が混入したのだろうと解釈している。

鈴木(2006)は『三才図会』系の情報が意図的に接続されたと考え、「したがって、この箇所に限っていえば、蝦夷人からの伝聞の内容をそのまま書きとめたものとは考えにくい」と解釈している。情報を接続させた人の意図は何かというと、「得体の知れない小人たちが何者であるのか、その存在を「同定」するためだろう」と解釈する (p.164)。「情報の接続による同定の意味するところは、何よりも本質的に任意の対象を既存の知の枠組みに取り込む営為、すなわち合理化なのである。そして、蝦夷人からの伝聞に『三才図会』系の情報を接続して『談海』や『玉滴隠見』8に見えるような話を仕立て上げた人は、おそらくその話が他の人に読まれることを意図していたのであろう」と考察している。

米井(2003)と鈴木(2006)のどちらの立場を取るとしても、次のことが言える。アイヌから聞き取ったとされる小人伝説は、和人の船員が記録したという史料上の制約から、直ちにその内容をすべてアイヌの伝承そのものだと考えるべきではないということである。

そもそもこの史料上の制約があるが故に、アイヌが小人と鶴のモチーフを知っていたかどうかを問題にすることは、証拠不十分により立証し難く、あまり意味がないことになる。

瀬川(2015)の記述にある混乱の原因は三種類の情報源が区別して論じられていないことにある。『三才図会』の影響が想定される「御曹子島渡」9と、アイヌ小人伝説の話の後に、『万国夢物語』と『増補華夷通商考』が紹介されてプリニウスとの結びつきを示唆しているが(p162)、これらは宣教師著作の翻訳であり『三才図会』とは別系統である。

  • 西川遠里『万国夢物語』は『坤輿万国全図』系統の「万国図釈」の和訳である(鈴木 2006 p.151)。

  • 西川如見の『増補華夷通商考』はイタリア人イエズス会士アレーニの『職方外記』をほとんどそのまま和訳したものである (ibid.)10

それゆえ『万国夢物語』と『増補華夷通商考』はギリシア・ローマ由来の伝承を含むが、一方で「御曹子島渡」はヨーロッパ由来の伝承を含むとは限らない11

以上により、プリニウスの『博物誌』の記事が中国から日本を経てアイヌに伝わったということはまったく立証できておらず、そもそもギリシア・ローマの伝承のうちでプリニウスのみに限定をつける必然性もない。

『三才図会』関連の中国での小人国の伝承(特に『括地志』での記述)のいずれかがギリシア・ローマ起源であることは十分あり得るが、それを裏付けることは容易なことではないのである12

参考文献

瀬川拓郎、アイヌ学入門、講談社、2015.

鈴木広光、「小人島」考・続貂、叙説 33、奈良女子大学文学部紀要、pp.149-168、2006. 資料検索 - 奈良女子大学学術情報センター

米井力也、小人島ニ至ル時、『国語国文』、第72巻第3号、京都大学文学部国語学国文学研究室、2003. (キリシタンと翻訳、平凡社、pp.324-341、2009に再録)

阿部敏夫、北海道民間説話の研究 (その9) : コロポックル伝説生成資料、北星学園大学文学部北星論集、49巻1号、 pp. 98-74、2012. 北星学園大学学術情報リポジトリ

石井研堂 編、異国漂流奇譚集、福永書店、1927.
異国漂流奇譚集 - 国立国会図書館デジタルコレクション

Pliny the Elder, The Natural History, John Bostock & Henry Thomas Riley trans., Taylor and Francis, 1885.
https://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.02.0137%3Abook%3D7


  1. 見通しをよくするために省略した細部が多いので、詳しくは原論文を参照
  2. 坤輿万国全図』のスカンジナ半島あたりに記された漢文注記「矮人国男女長止尺余、五歳生子、八歳而老。常為鸛鷂所食、其人穴居以避、毎候夏三月出壊其卵。云以羊為騎」(鈴木 2006 p.151)。
    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/71/Kunyu_Wanguo_Quantu_%28%E5%9D%A4%E8%BC%BF%E8%90%AC%E5%9C%8B%E5%85%A8%E5%9C%96%29.jpg
    プリニウス『博物誌』7.2 "Beyond these people, and at the very extremity of the mountains, the Trispithami and the Pygmies are said to exist; two races which are but three spans in height, that is to say, twenty-seven inches only. They enjoy a salubrious atmosphere, and a perpetual spring, being sheltered by the mountains from the northern blasts; it is these people that Homer has mentioned as being waged war upon by cranes. It is said, that they are in the habit of going down every spring to the sea-shore, in a large body, seated on the backs of rams and goats, and armed with arrows, and there destroy the eggs and the young of those birds; that this expedition occupies them for the space of three months, and that otherwise it would be impossible for them to withstand the increasing multitudes of the cranes. Their cabins, it is said, are built of mud, mixed with feathers and egg-shells. Aristotle, indeed, says, that they dwell in caves; but, in all other respects, he gives the same details as other writers."
  3. 蘭学書については例えば、山村才助『西洋雑記』巻三「小人国の説」はボイスの『学芸全書』のDwergen(小人)の項目冒頭をそのまま翻訳したものである(鈴木 2006 p.153)。この部分にはプリニウスの名も見える。
  4. 山海経』からの引用は「大東荒経」の「東海之外、大荒之中、有小人国、名靖人」と郭璞の注「北極有人長九寸、殆謂小人也、或作竫、音同」を簡潔にまとめたものと推定されている(鈴木 2006 p.153)。
  5. 鈴木(2006)はギリシア・ローマの伝承と中国の伝承の間に影響関係を認めることに関して正当にも慎重である。『括地志』の記述では大秦(ローマ)の南という少し具体的な位置設定がなされており、「地理的な位置といい、小人が鶴に食われてしまうことといい、ギリシア・ローマの古典世界における小人族の伝承とよく符合するので、ふたつの話が同源で、古代の中西交通によって西方から中国にもたらされたものではないか、とつい想像をめぐらせたくなる。だが、それはまた別に証明を要することであり、かりにそうであったとしてもここではそれほど重要ではない」(p.154)。
  6. 左下端の一つ上の四人の小人に注目
    万国総図・万国人物図 - 神戸市立博物館
  7. 『勢州船北海漂流記』は『異国漂流奇譚集』からの引用
    異国漂流奇譚集 - 国立国会図書館デジタルコレクション
    『談海』は米井(2003)から引用である。
  8. 鈴木(2006)は『談海』と同じ情報源から出たと推定する(p.163)。記事著者は『勢州船北海漂流記』をその情報源だと考える。『玉滴隠見』には以下のようにある。
    「エゾ人咄ニ仕候ハ、小人島ヨリ度々ニ此方ノ土. ヲヌスミニ参候ヲ見付申候時ヲドシ申候へバ 、(中略)尤生チイサク風ニ吹チラカサレ杯シケルトナン。亦小人島ニハ鶴多御座候。其鶴ニサラハレヌ様ニ五人トモ十人トモ手ニ手ヲ取組テ往還ヲ仕候ト申候事」
  9. 小人についてではないが、「日本の『御曹子島渡』に登場する「女護が島」の女たちも南風によって妊娠するが、これも中国から伝えられた(おそらく『三才図会』の)話がもとになっている」と鈴木(2006)は述べている(pp.159-160)。
  10. 『職方外記』には「又聞北海浜有小人国。高不二尺。 鬚眉絶無。 男女無弁。 跨鹿而行。 鸛鳥常欲食之。 小人常與鸛相戦。 或預破其卵以絶種」とある(鈴木 2006 p.151)
  11. 瀬川(2015)は「御曹子島渡」で手を繋いで歩く小人の挿絵に関連して『三才図会』を紹介し、「そしてこの中国の小人記事は、もとをたどればインドに小人族がおり、ツルから身を守るため隊列を組んで遠征するという、古代ローマプリニウス『博物誌』の記事が中国に伝わったものであるといいます(鈴木 2006)」と述べている (pp.160-161)。しかし鈴木(2006)の中で『三才図会』系の情報がプリニウスの『博物誌』に由来していると書いてある箇所はない。
  12. 瀬川(2015)で触れられていた女人島に関する伝承についても述べておく。マゼランによる世界一周航海を記録したイタリア人ガフェッタの(水先案内人から聞いたという)話を乗せており(p.163)、それによってニヴフ海上異界譚と「御曹子島渡」に対するギリシアの伝説との関係を示唆している。鈴木(2006)はこの報告が水先案内人の報告そのものであることを疑っている。「なぜなら「生まれてきたのが男の子であれば殺してしま」うという部分はアジアの伝承にはなく、ヨーロッパ人が語り継いできたアマゾネス伝説そのものだからである。大航海時代の記録の中から、このような現地の見聞をギリシア・ローマ時代からの伝承によって誇張させる例を数え上げようとすれば、枚挙にいとまがない」(p.160)。