Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

イシドルス『語源』翻訳 IX-1 『民族の言語について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳と以下の文献中の英訳を参照した。

Brehaut Ernest, An encyclopedist of the Dark Ages: Isidore of Serville, Columbia University, 1912.

この文献は以下のサイトで読むことができる。

https://archive.org/details/encyclopedistofd00brehrich/page/n9/mode/2up

翻訳

民族の言語について

様々な言語(lingua)が現れたのは[ノアの]洪水の後の[バベルの]塔においてである*1。塔の思い上がりが人間の共同体を様々な意味を持つ音[言語]に分ける前には、すべての民族の話す一つの言語があった。その言語はヘブライ語と呼ばれている。指導者たちや預言者たちはこの言語を自分たちの話す言葉として用いただけではなく、聖書においても用いた。

初めは民族の数だけの言語が存在した。その後には言語より多くの民族が存在した。なぜなら一つの言語から生じた複数の民族が存在するからである。ここでlingua(言語)はlingua(舌)から生じた言葉の代わりにそのように言われている。これは作られるものによって作るものが名付けられているような用語法である。例えば[話し]言葉の代わりに口(os, 発言)とよく言われるのや、文字(littera, 筆跡)の代わりに手とよく呼ばれるのがそうである。

そして神聖な言語は三つある。ヘブライ語ギリシア語、ラテン語がそうであり、これらはこの世の言語の中で最も優れている。なぜなら主の十字架の上にこれら三つの言葉でピラトゥスによって罪状が書かれたからである*2。聖書の謎めいた箇所を理解するためにはこれら三つの言語で考えることが必要である。これはある一つの言語の言葉が名称や解釈についての疑問を引き起こしたときに、他の言語に立ち返るためである*3

ギリシア語は諸民族の他の言語よりもより傑出したものと考えられている。なぜならギリシア語はラテン語や他の言語よりもいっそう格調高いからである。ギリシア語の種類[方言]は五つの部分に分けられる。一番目はκοινή(コイネー)と呼ばれている。これは皆が使う混合の、あるいは共通な(コイネー)方言である。二番目はアッティカ方言である。これはすべてのギリシアの権威たちが使っているアテナイの方言である。三番目はドーリア方言である。この方言をエジプト人やシリア人は用いている。四番目はイオニア方言である。五番目はアイオリス方言である。これはアリオリス人が話すと言われている。ギリシア語を観察するとこのように定められた区分が存在する。なぜならギリシア人の話し言葉(sermo)はこのように区分されるからである。

ラテン語には四つ[の種類が]あると言われれている。それは古期(priscus), ラティウム、ローマ、混合である。古期の方言はユノやサトゥルヌスの時代にイタリアで使われていた最も古い粗野な方言である。『サリイーの歌』(Carmen Saliare)で用いられているような方言である。ラティウム方言はラティーヌスや王たちの時代にエトルリア人や他の民族がラティウムで話していた方言である。十二表法はこの方言で書かれている。ローマ方言は王たちが追放された後にローマの民衆たちが話し始めた方言である。詩人であるナエウィウス、プラウトゥス、エンニウス、ウェルギリウスや弁論家であるグラックス、カトー、キケロやその他の人々がこの方言で多くの著作を生み出した。混合方言はローマ帝国が拡大した後に、ローマ市民共同体に[様々な]習俗と人間が同時に混入してできた方言である。[ラテン語の]言葉の純粋さ(integritas)は文法違反と破格語法によって破壊されたのである。

すべての東方の民族は喉に舌や言葉(verbum)を打ちつける。例えばヘブライ人やシリア人がそうである。すべての地中海付近の民族は口蓋に言葉(sermo)を打ちつける。例えばギリシア人や小アジアの人々がそうである。すべての西方の民族は歯で言葉を砕く。例えばイタリアの人々やヒスパーニアの人々がそうである。

シリア人とカルデア人は言葉においてヘブライ人と似ており、大部分の音が一致し、文字の音も一致する。言語自体[ヘブライ語]もカルデア語であると考える者もいる。なぜならアブラハムの先祖はカルデア人だからである。しかし、もしそのことを認めたとしたら、ダニエル書*4ヘブライ人の子供たちが彼らが知らなかった言語[であるカルデア語]を教わるように命じられたのはどうしてだろうか。

ギリシア語であれ、ラテン語であれ、その他の民族の言語であれ、どのような言語でも人は聞いて覚えるか教師が読むことで学ことができる。すべての言語の知識[を得ること]は困難だとしても、自分の民族の中に住んでいるのに、自分の民族の言葉を知らないほど怠惰な人間は誰もいないのである。このような人間は獣以外のどのようなものほど劣っていると考えなければならないだろうか。なぜなら獣は[その種に]固有な(propria)音声で唸り声をあげるので、[自分の民族に]固有な(propria)言語を知らない人間は[獣よりも]劣っているからである。

さて、神は世界の始まりで「光あれ」(Fiat lux)と言った時*5、どの言語を話したのかということを明らかにすることは困難である。なぜならまだ言語はなかったからである。同様に、その後にどの言語を人間の外側にある耳に鳴り響かせたか[を知ることは困難である]。特に最初の人間[アダム]あるいは預言者に話した時、または「お前は私の愛する子」(Tu est Fillius meus dilectus)*6と肉体的に(corporaliter, 物体的に)神の語った言葉が[耳に]鳴り響いた時がそうである。その[神の話した]言語は様々な言語が生じる前に存在した唯一の言語であると信じる者もいる。しかし神は話す内容が理解できるように、自国の人間が使うのと同じ言語で話すとさまざな民族が信じている。

神は目に見えない実体を通じて(per substantiam invisibilem)ではなく、物質的な被造物を通じて話した。さらに物質的な被造物を通じて話すときに人間の前に現れようとしたのである。伝道者[パウロ]は次のように言っている「もし人間と天使の言葉(lingua, 言語)で話すとしても」*7。ここで天使がどのような言語で話すのかが問題となる。このは天使に何らかの言語があるということではなく、この箇所は誇張法で言われているのである。同様に未来には人間はどのような言語で話すのかが問題になる。[答えは]どこにも見つからない。伝道者[パウロ]は次のようにも語っている「言葉であれば、途絶えるだろう」。

我々は最初に言語について書き記し、次に民族について書き記している。これは言語から民族が生じるのであり、民族から言語が生じるのではないからである。

*1:『創世記』11:1-9.

*2:ヨハネ福音書』19:19, 絵画には磔刑の場面で罪状が描かれている絵も数多くある。
例えば https://ja.wikipedia.org/wiki/キリスト昇架

*3:cf. アウグスティヌスキリスト教の教え』2-11.

*4:『ダニエル書』1:4

*5:『創世記』1:3

*6:『マルコ福音書』1:11

*7:『コリント人への第一の手紙』13:1