Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

イシドルス『語源』翻訳 II-27 命題論について

はじめに

テキストはP.K.Marshell, Etymologies. Book II, Rhetoric with translation and commentaties, Paris, 1983. を使用した。また同書中の英訳とBerney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳も参照した。 また本箇所でイシドルスが用いたソースはカッシオドルスの『綱要』(institutiones), 2.3.10-11である。 以下のサイトでテキストを確認することができる。
https://www.documentacatholicaomnia.eu/03d/0484-0585,_Cassiodorus,_Institutiones_Divinarum_Saecularium_Letterarum,_LT.pdf

https://faculty.georgetown.edu/jod/inst-trans.html

翻訳

命題論について

これより著作『命題論』(Perihermeinias)が続く。命題論は非常に精妙であり、様々な形式と繰り返しについて最も注意深いものである。命題論について次のように言われている。アリストテレスは命題論を書いていた時にペンを精神に浸していたと。(Aristoteles, quando Perihermeinias scriptibat, calamum in mente tinguebat.)

命題論への序文

一つであり一つの言葉(sermo)によって表示されるような全てのもの(res)は名辞によって表示作用されるか動詞によって表示作用されるかのいずれかである。これら言表の二つの部分は話すために精神が思考する所のもの全てを表現する(interpretantur)。なぜなら全ての発話(elocutio)は精神によって思考されたものの仲介者(interpres)だからである。物事を表現することと言葉を作ることに最も精妙な者であるアリストテレスは発話をPerihermeiniaと名付けた。我々はこれをinterpretatioと呼ぶ。なぜなら精神によって思考されたものは肯定(cataphasis)と否定(apophasis)を通じて話された言葉において表現を与えられる(interpretatur)からである。肯定によってである例は「人間は走る」がそうである。否定によってである例は「人間は走らない」がそうである。

名辞とは時制なしに規約によって表示する音声であり、そのいかなる部分も切り離されては表示作用しないもののことである。例えば「ソクラテス」がそうである。

動詞とは時制を伴って表示作用する音声であり, その部分が付加的には表示作用しないものであって常に何か別の物事について述べられるような記号(nota)のことである。例えば「考える」(cogitare)や「議論する」(disputare)がそうである。

言表とは表示作用する音声であり、その切り離された部分のあるものが表示作用するようなもののことである。例えば「ソクラテスは議論する」がそうである。

命題言表(Enuntiativa oratio)とは何かである、あるいは何かではない物事について表示作用するような音声のことである。例えば「ソクラテスである」(Socrates est)や「ソクラテスではない」(Socrates non est)がそうである。

肯定とは何かについて何かを言明するもののことである。例えば「ソクラテスである」(Socrates est)がそうである。

否定とは何かから何かを除外する言明のことである。例えば「ソクラテスではない」(Socrates non est)がそうである。

矛盾とは肯定と反対である否定のことである。例えば「ソクラテスは議論し、ソクラテスは議論しない」(Socrates disputat, Socrates non disputat)がそうである。

命題論でこれらの極めて精密な分割と下位分割全てが扱われている。ここではこれらの事柄の定義については簡潔に述べるだけで十分である。なぜなら適切な説明は命題論[の著作]自身の内に見出されるからである。命題論の有用性は三段論法はこれら表現されたもの(interpretamenta, 諸命題)から作られているという点である。それゆえ次に分析論(analytica)について考察することにしよう。