Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

イシドルス『語源』翻訳 VII-2: 1-12『神の御子について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。

翻訳

聖書(scriptura divina)にはキリストが様々な呼び名で呼ばれているのも見出される。それは父なる神のひとり子自身が父なる神と等しいにも関わらず、我々の救いのために僕の姿を引き受けられたからである。それゆえある名前はキリストにおける神性である実体に由来して用いられ、ある名前は引き受けられた人性の割り当てに由来して用いられている。

キリスト(christus)はchrismata、つまりunctus(油を注がれた者, 油を塗られた者)に由来してそのように呼ばれる1。なぜなら聖なる香油を備えるのはユダヤ人の教えだったのであり、祭司や王と呼ばれる人たちはこの香油を注がれることができたからである。今日、王が身に纏う紫の服が王の権威の象徴であるように、ユダヤ人にとっては聖なる香油を注がれた者(メシア)という名称はその人に王の権能を与えていた。それゆえ、キリストはchrismata、つまりunctus(油を注がれた者)に由来してそのように呼ばれる。

ギリシア語のchrisma(油を注ぐこと)はラテン語ではunctioと呼ばれる。主にとってのこの[chrismaという]名は聖霊による塗油にも用いられている。なぜなら使徒行伝にあるように聖霊による塗油は父なる神からのものだからである。

「彼らはあなたが油を注いだ聖なる御子に逆らってこの都に集まった。」(Collecti sunt enim in hac civitate adversus sanctum Filium tuum, quem unxisti.)2

この塗油は決して目に見えるオリーブ油によってなされたのではなく、恩寵である贈り物によってなのである。この恩寵である恵みのことを目に見えるオリーブ油は表しているのである。一方でChristusという名称は救い主(salvator)のみに適用される固有名ではなく、権能の一般名称である。つまりキリストと呼ばれる時は権能の一般名であり、イエス・キリスト(Iesus Christus)と呼ばれる時は救い主の固有名なのである。

キリストという名称はキリストについて預言され、彼がそこへ来ることとなった王国3のみを除いて、他のいかなる民族のところにもなかった。 ヘブライ語ではMesias(メシア)と呼ばれ、ギリシア語ではChristusと呼ばれ、ラテン語ではunctusと呼ばれる。ヘブライ語のIesus(イエス)はギリシア語ではσωτήρ(救い主)4ラテン語ではsalutarisあるいはsalvatorと訳される。salutarisあるいはsalvatorと訳されるのは彼が全ての民の癒し手として現れるからである。福音記者も次のようにこの名称の語源を示している5

「お前はその子の名前を救い主と名付けるだろう。彼こそが他の民を救うだろうからである」(Vocabis nomen eius Salvator, quia ipse salvum faciet populum suum.)

つまり、キリストが王を意味しているように、イエスは救い主を意味しているのである。

すなわち、どの王も我々の救いであるわけではなく、[イエス・キリストこそが]救い主である王なのである。

以前はラテン語には'salvator'という語を持っていなかったが、持つことは可能であった。持とうとした時、持つことが可能であったということである。

ヘブライ語由来のエマニュエルはラテン語では'nobiscum Deus'(神、我らと共に)という意味である6。これは処女から生まれた主が地上の人々に対する天上への救いの道を開くために可死的な肉体で人間たちの前に現れたからである。 神的な実体に属するキリストの名称はDeus(神)とDominus(主)である。父[なる神]との実体の同一性ゆえにキリストは神と呼ばれる。また仕える者どもの創造ゆえにキリストは主と呼ばれる。キリストは神であり、人間である。なぜなら言葉であり肉であるからである7。それゆえにキリストは二度生まれた者と呼ばれる。なぜなら父は永遠において8は母なしに産んだから、一方で母は時間においては父なしに生んだからである。


  1. Gr. χριστός. χριστόςはヘブライ語のメシア(מָשִׁיחַ, 油を注がれた者)の訳語。

  2. 使徒行伝』4:27 .
    「実際に、ヘロデとポンティウス・ピラトゥスとは、異邦人らとイスラエルの民らとこの都に共に集まって、あなたが油注がれたあなたの聖なる僕イエスに逆らい、あなたの御手と御旨とがあらかじめ起こるように定めていたことを成し遂げたのです。」 (以下 新約聖書翻訳委員会訳)

  3. エルサレムのこと。cf. 『マルコ福音書』1, 11および並行箇所。christus(i.e. χριστός)はギリシア語であるので"christus"という語自体が問題となっているのではない。

  4. Iesus自体がギリシア語(ἰησοῦς)だが、ἰησοῦςの転写元であるヘブライ語であるヨシュアיֵשׁוּעַ の原義は「救い」であるので、解釈の結果自体は合う。
    cf. ユスティノス『第一弁論』33.「ところで、ヘブライ語のイエスという名は、ギリシア語では救い主(ソーテール)を意味します」 (柴田有 訳)。

  5. 『マタイ福音書』1:21. ただしこの引用でsalvatorとなっている箇所はNA28やVulgataではIesusである。
    Read the Bible text :: academic-bible.com

  6. Heb. עִמָּנוּאֵל (インマヌエル): עִמָּנוּ+אֵל (神+我々と共に). cf. 『マタイ福音書』1:23, 『イザヤ書』8:8, 8:10.

  7. cf. 『ヨハネ福音書』1 .
    「はじめに、ことばがいた。ことばは、神のもとにいた。ことばは、神であった。(中略) ことばは肉[なる人]となって、われわれの間に幕屋を張った。」

  8. 例えば『ヨハネ福音書』1にあるような「はじめ」のこと。

イシドルス『語源』翻訳 I-44『歴史の種類について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。

翻訳

Historiae(歴史、歴史記述)には三つの種類がある1。第一に、一日の出来事はephemeris(ἐφημερίς, 日記)と呼ばれる。我々はこれをdiarium(diary, 日記)と呼んでいる。なぜならラテン人がdiurnus(一日の)と言うのを、ギリシア人はephemerisと言うからである。一月ごとに分けられた歴史はKalendarium(calendar)と呼ばれる。一年ごとの出来事はannalis(annals, 年代記)と呼ばれる。家のことでも軍隊のことでも、記憶に値することは海でも陸でも毎年(per annos)覚書(commentarius)に記録される。annalisはanniversarius(毎年の)[出来事]に由来してそう名付けられた。歴史(historia)は多数の年や季節に関わっている。毎年の覚書にある歴史の詳細な記述は本の形で報告される。歴史と年代記の間には次のような関係がある。歴史は我々が目撃した時代に関わる。一方、年代記は我々の生涯では知ることができない年に関わる。それゆえサルスティウス2は歴史に関わり、リウィウスとエウセビオスとヒエロニュモスは年代記と歴史の両方に関わっている。同様に歴史とありそうな話(argumentum)3と寓話の間には次のような関係がある4。歴史は起こった本当の出来事である。ありそうな話はたとえ起こっていなくても、起こりそうな出来事である。寓話は起こっても起こりそうでもない出来事である。なぜなら寓話は自然に反しているからである。


  1. ここでhistoriaあるいは複数形historiaeは歴史一般ではなく、歴史記述(資料)の意味合いが強い場合が多い。ただし訳し分けるのはかえって煩雑になるのですべて「歴史」と訳すことにする。
  2. Gaius Sallustius Crispus. 『ユグルタ戦争』と『カティリーナの陰謀』が現存する。カティリーナ陰謀事件はサルスティウスの20代の出来事である。アウグスティヌスは「史実に忠実なことで有名なサルスティウス」と評している(『神の国』1.5)。
  3. Barney et al. 注47 (p. 67)
    "On the term argumentum as "possible fiction" see. E. R. Curtius, European Literature and the Latin Middle Ages, trans. Trask (NY, 1953), 452-55."
  4. 歴史も寓話もどちらも「物語」あるいは「話」であるという点は共通しているので比較され得る。

イシドルス『語源』翻訳 I-41, 42,43『歴史について』『最初の歴史家について』『歴史の有用性について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳と以下の文献中の英訳を参照した。

Brehaut Ernest, An encyclopedist of the Dark Ages: Isidore of Serville, Columbia University, 1912.

この文献は以下のサイトで読むことができる。

https://archive.org/details/encyclopedistofd00brehrich/page/n9/mode/2up

翻訳

歴史について

歴史とは起こったことについての語りである。

(Historia est narratio rei gestae.)

歴史によって過去の出来事が識別される。Historia (歴史)はギリシア語のἱστορεῖν (historein, 物語ること)に由来してそのように呼ばれる。つまり見ること、あるいは知ることに由来してそのように呼ばれる。昔の人々においてはそこに居合わせており、記録される出来事を目撃していた人でなければ誰も歴史を記録しなかった。なぜなら我々は伝聞を集めて知った出来事よりも、[直接]目で見た出来事の方がよりよく把握できるからである。それは目撃された物事は誤ることなしに述べ伝えられるからである。

この学問[歴史]は文法学との関わりがある。なぜなら記憶(memoria)するに値することはなんであれ文字によって記録されるからである。それゆえhistoriae(記録、記述)はmonumenta(記録、思い出させるもの)とも呼ばれる。なぜなら歴史は出来事についての記憶を与えてくれるからである。series(ひと続き)は交互に編み合わされた花冠(serta)との比喩によってそのように呼ばれる1

『最初の歴史家について』

我々の元では最初にモーゼが世界の始まりについての歴史を記録した 2。一方、異教徒の間では最初にプリュギアのダレスがギリシアトロイアの歴史を公表した。その歴史は棕櫚の葉に書き記されたと言い伝えられている。ダレスの後に初めて歴史を記録したのはヘロドトスである。ヘロドトスの後にはペレキュデスがエズラが律法を書き記した時代3に有名になった。

歴史の有用性について

そこに書かれている有用なことを読み取ることができる読者にとっては異教徒の歴史は有害ではない。なぜなら多くの賢い者は歴史[の知識]によって人間の過去の出来事を現在の教えに取り入れることができるからである。さらに、歴史によって遡って季節と年の全体4を計算で把握でき、執政官や王の連続によって5多くの重要な事柄を詳細に調べることができるから有用なのである。


  1. 出来事のひと続き(連続)、それに付随する記録の連続に関連して語源が述べられている。
  2. 『創世記』のこと。モーゼ自身が著者であると考えられていた。cf. 『ヨハネ福音書』5:47, 『ヨベル書』1:5.
  3. 紀元前450年頃のこと。
  4. 経過した時間の全体。
  5. ローマでの紀年法は2名の執政官の名前によるものであった。

イシドルス『語源』翻訳 XVIII-66,67,68『サイコロ投げについて』『駒の動きについて』『サイコロ遊び禁止令について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。

翻訳

サイコロ投げについて

サイコロ遊びに熟達した者は望んだ目が出るようにサイコロを投げることができる。例えば6の目を出す。これは彼らにとっては良い目である。一方、「犬」の目を避ける。なぜなら犬は1の目を意味するからである。

駒の動きについて

駒のあるものは秩序立って(ordine)動き、あるものは無秩序に(vage)動く。それゆえ一方はordinarius(秩序立った駒)と呼ばれ、他方はvagus(無秩序な駒)と呼ばれる。しかし、まったく動かされることができない駒はincitus(動かせない駒)と言われる。そこから困窮した人もincitus(どんづまり)と呼ばれる。その人にはこれからいかなる希望も残っていないからである。

サイコロ遊び禁止令について

サイコロ遊びの技からはペテンと嘘と偽誓が決して無くならず、最後には憎しみと財産の損失が生じる1。それゆえ、その悪影響ゆえに、ある時に法律によって禁止された。


  1. 純粋な遊びとしてだけではなく、賭けとしてのゲームも行われたことを示している。

イシドルス『語源』翻訳 XVIII-60,61, 62『ゲーム盤について』『サイコロ塔について』『駒について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。

サイコロ塔の画像

Dice tower - Wikipedia

以下の論文には駒の画像がある。

https://halshs.archives-ouvertes.fr/halshs-02927544/document

Aleaというゲームについては次の論文も参照

https://www.jstor.org/stable/651038

翻訳

『ゲーム盤について』

盤上の遊びであるサイコロ遊び(Alea)はトロイア戦争で暇な際にギリシア人たち、とりわけAleaという名の兵士によって発明された。そしてそのことからこの技は名前を得ている。ゲーム盤はサイコロ塔と駒とサイコロと共に遊ばれる1

『サイコロ塔について』

サイコロ塔(Pyrgus)はその中をサイコロが通っていくこと、あるいは塔(turris)の形をしていることからそのように呼ばれる。なぜならギリシア人はturrisのことをπύργος (pyrgos)と呼んでいるからである。

『駒について』

駒(calculus, 小石)はすべすべしており丸いことからそのように呼ばれる2。それゆえ小石(lapis brevis)も駒(calculus)と呼ばれる。その小ささゆえに苦労せずに踏まれる(calcare)からである。同様に、駒がそのように呼ばれるのは盤上に並んでいる線をcallis(小道)のように進んでいくのからである。


  1. イシドルスの記述からはaleaのルールは不明であるが、盤上で駒とサイコロを使うことからバックギャモンの前身の一つと考えられている。

  2. “calculus"は"calx”(小石)に由来し、calxはギリシア語のχάλιξ (小石)との関係が推測されている。

イシドルス『語源』翻訳 XVIII-63, 64,65『サイコロについて』『サイコロの象徴について』『サイコロの用語について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。

中世ヨーロッパのサイコロ情報

How Dice Changed in the Middle Ages - Medievalists.net

Unusual medieval dice found in Bergen — Norsk institutt for kulturminneforskning

翻訳

『サイコロについて』

サイコロ(tessera)はすべての面が四角であることからそのように呼ばれる1。サイコロを子兎(lepuculus)と呼ぶ者もいる。これはサイコロが飛び跳ねながら走り回るからである。かつてはサイコロはjacere(投げること)に由来してjacula(投げもの)と呼ばれていた。

『サイコロの象徴について』

さらに、サイコロ使いの中には、自分たちは寓喩によってサイコロの技を自然学的なものとして用いており、ある種の事物との類似性に基づいて技を表現しているのだと考える者もいる。例えば彼らは人生における三つの時との類似によって三つのサイコロで遊ぶのだと主張している。その三つの時とは現在、過去、未来である。類似の理由は時間は止まっておらず、走り行くからである。また一方で、盤上の線が六つの領域に区切られていることは人間の年齢期との類似によって説明される。盤上の三つの線については人生における三つの時2によって説明される。そのような訳で彼らは盤は三つの線によって分割されるのだと言っているのである。

『サイコロの用語について』

昔の遊戯者の間ではそれぞれのサイコロの振りは数字で呼ばれていた。1, [2], 3, 4, [5], 63というようにである。その後にはそれぞれの呼び名は変わっていった。1は「犬」と呼ばれ、3は「仰向け」と呼ばれ、4は「平ら」と呼ばれた。


  1. cf. τέσσαρες: four.
  2. tempora. 先に述べられた現在、過去、未来の三つのことか。
  3. Barney et al. 注 p.371.
    "Some early manuscripts omit the two- and five-spots, and one early type of dice also omitted these, leaving two rounded faces."

イシドルス『語源』翻訳 X-1: 18-24『人間と怪異について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。

前回 14-17. 前回は人間の肉体についてであり、今回は五感の説明からである。

イシドルス『語源』翻訳 X-1: 14-17『人間と怪異について』 - Asinus's blog

翻訳

肉体に関する感覚は五つある。それは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚である。それらの内二つは開かれたり閉じられたりする1。二つは常に受動的である2。感覚(sensus)はそれによって魂が知覚(sentire)の活動を通じて身体全体を限りなく精妙に働かすところのものである。それゆえ感覚はpraesentia(前にあるもの)とも呼ばれる。なぜなら感覚の前にある(prae sensibus)からである。これは目の前にあるもの(quae praesto sunt oculis)のことを目の前のもの(prae oculis)と呼ぶのと同様である。視覚(visus)とは哲学者が硝子体液(humor vitreus)と呼んでいるもののことである3。そして視覚は外部のアイテールの光あるいは内部の透明な精気から生じると断言する者もいる。この精気は脳から微細な管を通って入ってきて、膜へと浸透し、空気中へと出ていく。そして類似した物質と混合することによって視覚を生み出すのである。視覚(visus)は他の感覚よりもより活発である(vivacior)、さらに、より卓越している、あるいはより速い(vigeat)ことからそのように言われる。これは記憶が他の精神の働きの内でそのようなものであるのと同様である。より活発であるのはすべて[の物質]がそこから流れ出るところの脳に[他の感覚器官よりも]目がより近いからである。このことから他の感覚に属することを我々が「見よ」というようになるのである。例えば「どのような音がするのかを見よ」や「どんな味がするのかを見よ」やこれに類する表現がそうである。

聴覚(Auditus)は声を引き入れること(aurire)からそのように呼ばれる。つまり空気が打たれた時に耳が音を受け入れるということである。嗅覚(Odoratus)はあたかも「空気の匂いに触れられる」(aeris odris adtactus)のように言われる。味覚(Gustus)は喉(guttur)に由来してそのように呼ばれる。触覚(Tactus)は手で触れること(pertractare)と触れること(tangere)と、身体全体にこの感覚に関わる力を行き渡らせることからそのように呼ばれる。そして我々は他の感覚によっては判断することができないものを触覚によって判断する。触覚には二つの種類がある。一つは外側から身体を打つ物質が来るようなものであり、もう一つは自分の体の内側から生じるものである。それぞれの感覚には固有の感覚器官(natura)が与えられている。見られるべきものは目によって捉えられる。聞かれるべきものは耳によって捉えられる。柔らかさと硬さは触れることによって判断される。味は味わうことによって判断される。匂いは鼻孔によって吸われる。


  1. 視覚と味覚の二つのこと。目と口を開いたり閉じたりすることについて言っている。

  2. 聴覚と嗅覚のこと。触覚は触れるという能動的な動作も関わるので常に受動的であるとは言えない。

  3. Gr. χυμός ὑαλοειδής. ここでの哲学者とはガレノスのような自然哲学者のこと。