Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

イシドルス『語源』翻訳 X-1: 18-24『人間と怪異について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。

前回 14-17. 前回は人間の肉体についてであり、今回は五感の説明からである。

イシドルス『語源』翻訳 X-1: 14-17『人間と怪異について』 - Asinus's blog

翻訳

肉体に関する感覚は五つある。それは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚である。それらの内二つは開かれたり閉じられたりする1。二つは常に受動的である2。感覚(sensus)はそれによって魂が知覚(sentire)の活動を通じて身体全体を限りなく精妙に働かすところのものである。それゆえ感覚はpraesentia(前にあるもの)とも呼ばれる。なぜなら感覚の前にある(prae sensibus)からである。これは目の前にあるもの(quae praesto sunt oculis)のことを目の前のもの(prae oculis)と呼ぶのと同様である。視覚(visus)とは哲学者が硝子体液(humor vitreus)と呼んでいるもののことである3。そして視覚は外部のアイテールの光あるいは内部の透明な精気から生じると断言する者もいる。この精気は脳から微細な管を通って入ってきて、膜へと浸透し、空気中へと出ていく。そして類似した物質と混合することによって視覚を生み出すのである。視覚(visus)は他の感覚よりもより活発である(vivacior)、さらに、より卓越している、あるいはより速い(vigeat)ことからそのように言われる。これは記憶が他の精神の働きの内でそのようなものであるのと同様である。より活発であるのはすべて[の物質]がそこから流れ出るところの脳に[他の感覚器官よりも]目がより近いからである。このことから他の感覚に属することを我々が「見よ」というようになるのである。例えば「どのような音がするのかを見よ」や「どんな味がするのかを見よ」やこれに類する表現がそうである。

聴覚(Auditus)は声を引き入れること(aurire)からそのように呼ばれる。つまり空気が打たれた時に耳が音を受け入れるということである。嗅覚(Odoratus)はあたかも「空気の匂いに触れられる」(aeris odris adtactus)のように言われる。味覚(Gustus)は喉(guttur)に由来してそのように呼ばれる。触覚(Tactus)は手で触れること(pertractare)と触れること(tangere)と、身体全体にこの感覚に関わる力を行き渡らせることからそのように呼ばれる。そして我々は他の感覚によっては判断することができないものを触覚によって判断する。触覚には二つの種類がある。一つは外側から身体を打つ物質が来るようなものであり、もう一つは自分の体の内側から生じるものである。それぞれの感覚には固有の感覚器官(natura)が与えられている。見られるべきものは目によって捉えられる。聞かれるべきものは耳によって捉えられる。柔らかさと硬さは触れることによって判断される。味は味わうことによって判断される。匂いは鼻孔によって吸われる。


  1. 視覚と味覚の二つのこと。目と口を開いたり閉じたりすることについて言っている。

  2. 聴覚と嗅覚のこと。触覚は触れるという能動的な動作も関わるので常に受動的であるとは言えない。

  3. Gr. χυμός ὑαλοειδής. ここでの哲学者とはガレノスのような自然哲学者のこと。