Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

イシドルス『語源』翻訳 VIII-5: 26-36『キリスト教の異端について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

脚注は不完全であり改訂予定である。

イシドルス『語源』翻訳 VIII-5: 1-10『キリスト教の異端について』 - Asinus's blog

イシドルス『語源』翻訳 VIII-5: 11-25『キリスト教の異端について』 - Asinus's blog

翻訳

アロゴス派1はあたかも「言葉なしで」(sine Verbo)のようにそう呼ばれる。なぜならverbumはギリシア語ではλόγος(ロゴス)と呼ばれるからである。 それは彼らが神は言葉であると信じず、ヨハネ福音書と黙示録を拒否しているからである。

カタフリュギア派(Cataphrygius)2はフリュギア地方からその名前を得ている。なぜなら彼らはそこにいたからである。カタフリュギア派の創始者はモンタノスとプリスカとマクシミラである。彼らは聖霊使徒たちにではなく、自分たちの下に到来すると主張している。

カタリ派(Catharus)3はmunditia(清浄, καθαρός, カタロス)に由来してそのように名乗った。彼らは自分たちの価値を誇っているので、悔い改めによる罪の赦しを否定している。彼らは寡婦がもし再婚したならば、姦婦だと言って非難する。また彼らは自分たちは他の者たちよりも清浄(mundus)であると説いている。彼らがもし自分たちに本当にふさわしい名前がなんであるかを知ろうとしたならば、彼らはmundus(清浄)よりもむしろmundanus(世俗的な)と自分たちのことを呼んでいただろう。

パウロ派(Paulianus)はサモサタのパウロ創始者である。彼はキリストは常に存在したのではなく、マリアから始まりを得たと言った。

ヘルモゲネス派(Hermogenianus)はヘルモゲネス4という人に由来してそのように呼ばれる。彼は生み出されていない(創造されていない)質量[という考え]を導入し、これを生み出されていない神と対比した。そして彼はこの質量は元素の母であり、女神であると主張した。使徒[パウロ]は元素に囚われている彼らを非難している5

マニ教(Manicheus)はマニとよばれるペルシア人創始者である。彼は二つの本性と実体を導入した。それは善と悪である。そして彼は魂はあたかも泉のように神から流出するのだと主張した。彼らは旧約聖書を否定し、新約聖書は部分的にだけ受け入れている。

神人同形派(Anthropomorphitae)は、田舎の素朴さによって聖書に書かれている神は人間の姿をしていると彼らが考えていることに由来してそのように呼ばれる。なぜならギリシア語のἄνθρωπος (anthrōpos)はラテン語ではhumus(人間)と翻訳されるからである。彼らは主の言葉を無視している、こう言っているからである。「神は霊である」(Spiritus est Deus)6。つまり神は非物体的であり、四肢は分かれておらず、物体的な大きさでは考えられない。

ラクレイオン派はヘラクレイオンが創始した。彼らは修道士のみを受け入れ、結婚を否定し、子供が天の王国に入ること7を信じていない。

ノウァトス派(Novatianus)はローマの司祭であるノウァトスが創始した。彼はコルネリウスに対して司教の座を奪おうと試み、[彼の]異端[の宗派]を打ち立てた。彼は棄教者を受け入れようとせず、洗礼済みの者たちに再洗礼した8

山岳派(Montanus)はキリスト教徒迫害の時に、山中(mons, 山)に隠れたことからそのように呼ばれる。この[迫害の]時に彼らは正統派教会の本体から分かれた。

エビオン派(Enionita)はエビオン[という人]に由来してそのように呼ばれる9。彼らは半ユダヤ人(semi-judaeus)である。彼らは福音を守っているが、肉において律法を守っている10だけである。彼らを批判して使徒[パウロ]がガラテア人に書いた手紙が見つかっている11


  1. ἄ(without) + λογος (logos).

  2. モンタノス派とも呼ばれる。

  3. 12、13世紀に北イタリアや南フランスで広まったカタリ派のことではない。

  4. テルトゥリアヌスが『ヘルモゲネス論駁』で詳しく批判している。

  5. 批判されているのは同名の別人である。『テモテへの第二の手紙』1:15.
    「アシアの人々が皆ーその中にはフュゲロスとヘルモゲネスがいるー私から離反したこと、このことを君は承知している[と思う。]」(以下 新約聖書翻訳委員会訳)

  6. ヨハネ福音書』4:24.

  7. 『マルコ福音書』10:13-16 及び並行箇所。
    「子供たちを私のところに来るままにさせておけ。彼らの邪魔をするな。なぜならば、神の王国とは、このような者たちのものだからだ。アーメン、あなたたちに言う、神の王国を子供の[受け取る]ように受け取らない者は、決してその中に入ることはない」。

  8. エウセビオス『教会史』6:43-45.

  9. 実際はヘブライ語אֶבְיוֹן (evyōn, 貧しい)に由来している。

  10. 食事規定や祭儀規則などのことであろう。

  11. 『ガラテア人への手紙』6:12.
    「肉においていい顔をしたいと欲している[あの]者たちはすべて、割礼を受けることをあなたがたに強要しているのである。それはただ彼らが、キリストの十字架[を宣教すること]によって迫害されることがないためである。」

イシドルス『語源』翻訳 VIII-5: 11-25『キリスト教の異端について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

脚注は不完全であり改訂予定である。

イシドルス『語源』翻訳 VIII-5: 1-10『キリスト教の異端について』 - Asinus's blog

翻訳

ヴァレンティノス派(Valentinianus)はプラトンの信奉者であるヴァレンティノスに由来してそのように呼ばれる1。彼は創造主である神の起源においてある種の時代であるαἰῶνες(アイオーン)2を導入した。さらに彼らはキリストは肉体については処女から何も受け取っていないが、管のようなものを通じて彼女を通して来たのだと主張した。

アペレス派(Apellita)はアペレス3創始者であった。彼は、至高の神の下にある栄光ある天使4を[この世界の]創造主としており、この火のような存在がイスラエルの律法での神5であると主張した。そして「キリストは真実には神ではなく、幻において現れた人間である」と言った。

アルコーン派(Archontiacus, cf. ἄρχων, 統治者)は権天使(principes, ἀρχαί)に由来してそのように呼ばれる。彼らは大天使たちの使命は神の創造した宇宙を守ることであると論じている。

アダム派(Adamianus)はアダムの裸(アダムが裸でいたこと)を真似ていることからそのように呼ばれる。それゆえ彼らは裸で祈り、そして男も女も裸で集会をしている。

同様に、カイン派(Caianus)はカイン6を崇拝していることからそのように呼ばれる。

セツ派(Sethianus)はセツ7と呼ばれるアダムの息子に由来してその名を得ている。彼らはセツとキリストが同一だと言っている。

メルキゼデク派(Melchisedechianus)は、彼らが神の祭司であるメルキゼデク8は人間ではなく、神のものである力天使(virtus)であると信じていることからそのように呼ばれる。

天使派(Angelicus)は天使を崇拝することからそのように呼ばれる。

使徒派(Apostolicus)はいかなる自分の所有物も持たず、この世で何かを所有しているような人を決して[自分たちのグループに]受け入れないので、そのように名乗っている9

ケルド派(Cerdonianus)はケルドという人に由来してそのように呼ばれる。彼らは二つの反対である原理があると主張した。

マルキオン派(Marcionista)はストア派の哲学者であるマルキオン10に由来してそのように呼ばれる。彼はケルドンの教義の信奉者である。彼はあたかも創造の原理と善の原理の二つの原理のように、一方は善なる神、もう一方は正しい神がいるということを主張している。

アルトテュロス派(Artotyrita)は彼らの聖餐に由来してそのように呼ばれる。なぜならパン(cf. ἄρτος, パン, アルトス)とチーズ(cf. τυρός, チーズ、テュロス)を[聖餐として]供しているからである。彼らは初めの人間たちは大地の実りと羊の実りによって供犠を行っていたと言っている11

アクア派(Aquarius)は聖餐杯に水(aqua)のみを供することからそのように呼ばれる。

セウェロス派(Severianus)はセウェロスが創始者であり、彼らは葡萄酒を飲まず、古い契約12と復活[の教義]を受け入れない。

タティアノス派(Tatianus)とはタティアノスという人に由来してそのように呼ばれる。彼らはEncratitae (ἐγκρατῖται, cf. ἐγκράτεια, 抑制)とも呼ばれる。なぜなら肉を忌み嫌っているからである。


  1. cf. ヒッポリュトス『全異端論駁』6. 29 (大貫隆訳)
    ピュタゴラスプラトンの教説は、要点を絞って通観すると、ほぼ以上のような構成であった。ヴァレンティノスは両者のこの教説を受け取って自分の党派を率いたのであり、福音書からそうしたのではなかった。従って、彼は正しくはピュタゴラス教徒あるいはプラトン教徒と呼ばれるべきではあっても、キリスト教徒と呼ばれるべきではないであろう。」

  2. cf. エイレナイオス『異端反駁』11:1-12:4.

  3. cf. エウセビオス『教会史』V-13.

  4. デミウルゴスのこと。

  5. cf. 『出エジプト記』3:2.

  6. 『創世記』4.

  7. 『創世記』5:3-8.

  8. 『創世記』14:18-20, 『詩篇』110:4, 『ヘブル人への手紙』5:6. メルキゼデクの名は聖書全体に3箇所だけしか表れていない。

  9. cf. 『マルコ福音書』6:7-9及び並行箇所。またこの箇所はQ文書に由来すると考えられている。「十二人」とは使徒のことである。
    「さて、彼は十二人を呼び寄せる。そして彼らを二人ずつ遣わし始めた。また、彼らに穢れた霊ども[に対する]権能を与えるのであった。そして彼らに指図して、道中は一本の杖のほかには何も携えないように、パンも、皮袋も持たず、帯の中には銅貨も入れず、ただ皮ぞうりをはき、そして「下着も二枚は身にまとうな」[と命じた]。」(新約聖書翻訳委員会訳)

  10. マルキオン正典の編纂を行った。テルトゥリアヌスの『マルキオン論駁』で詳しく批判されている。

  11. cf. 『創世記』4:3.
    「日を経てのこと、カインは大地のみのりの中からヤハウェに献げ物を携えて来た。アベルもまた、彼の羊の初子の中から、しかもその肥えたものの中から、[献げ物を]携えて来た。」(旧約聖書翻訳委員会訳)

  12. Vetus Testamentum (旧約).

イシドルス『語源』翻訳 VIII-5: 1-10『キリスト教の異端について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。固有名はギリシア語読みにしたが、既存の読み方があった場合はそれに従った。

脚注は不完全であり改訂予定である。

翻訳

教会から離れた(necedere, 逸脱する)異端者たちの内、ある人々はその[教派の]創始者の名前で呼ばれており、ある人々は、選ばれた者たちが定めた理由(causa)に由来して呼ばれる1

シモン派(Simonianus)は魔術の教えに通じたシモンに由来してそのように呼ばれる。このシモンをペトロは『使徒行伝』で罵倒した。なぜなら使徒たちから聖霊の恵みを金で買収しようとしたからである2。シモン派は次のように言っている。「被造物は神によって創造されたのではなく、至高の力3によって創造されたのである」。

メナンドロス派(Menandrianus)はシモンの弟子である魔術師メナンドロスに由来してそのように呼ばれる。メナンドロスは世界は神によって作られたのではなく、天使たちによって作られたのだと主張した。

バシレイデス派(Basilidianus)はバシレイデスに由来してそのように呼ばれる。バシレイデスは他の数々の冒涜の中で、キリストの受難を否定した。

ニコライ派(Nicolaita)はヒエロソリュマ4教会の助祭であったニコライに由来してそのように呼ばれる。ニコライはステファノスとその他の人々と共にペトロによって任命された。彼は美しさの故に妻を捨てた。それは欲する者が彼女を味わえるようにである。この慣習は相互に妻が取り替えられるというように姦通となった。このことをヨハネは『黙示録』で非難している5。「お前がニコライ派の行いを憎んでいることは取り柄である。」

グノーシス派(Gnosticus)は知恵(cf. γνῶσις, グノーシス)の卓越性ゆえに自分たちのことをそう呼ぶことを好んだ。「魂は神の本性である」と彼らは言う。そして彼らの教義において彼らは善き神と悪しき神を作り出した。

カルポクラテス派(Carpocratianus)はカルポクラテスという人に由来してそのように呼ばれる。彼は次のように言った。「キリストは単なる人間であった。そしてキリストは両方の性から6生まれた。」

ケリントス派(Cerinthianus)はケリントスという人に由来してそのように呼ばれる。他の事どもの内で、彼らは割礼を守った。そして彼らは復活の後に千年の間、肉の喜びを楽しむであろうと予言している。そこから彼らはギリシア語でChiliasta (χιλιάς: 1000)、ラテン語でMiliastus7 (千年至福論者)と呼ばれた。

ナザレ派(Nazaraeus)8はキリスト(彼は出身の村に由来してナザレ人(Nazaraeus)と呼ばれた)が神の子であることを信仰告白しているが、一方で古い法9におけるすべてのことを遵守している。

オピス派(Ophita)10は蛇(coluber)に由来してそう呼ばれている。なぜならcoluberはギリシア語ではὄφις(オピス)と呼ばれるからである。これは彼らが蛇を崇拝しているからであり、彼らは蛇は楽園11に力についての覚知をもたらしたと言っている。


  1. 例えばグノーシス派は創始者の名前ではないのでこちらに含まれると思われる。

  2. 使徒行伝』8:18-23.

  3. cf. 『使徒行伝』8:10.
    彼らはすべて、子供から年寄りに至るまで彼に聞き従い、言っていた。「このひとこそは『大いなる力』とよばれる神の力である」。(新約聖書翻訳委員会訳)

  4. ἱεροσόλυμα. エルサレムのこと。

  5. ヨハネの黙示録』2:6. イシドルスの引用は少し短い。ここでの「お前」とはエフェソにある教会にいる使いのことであり、黙示録の著者ではない。以下の「私」とはキリストのことである。
    「しかし、お前がニコライ派の人々の行いを憎んでいること、そのことはお前の取り柄である。彼らの行いは、私も憎んでいる。」(新約聖書翻訳委員会訳)

  6. 父親と母親からということ。つまりマリアの処女懐胎を否定している。

  7. イシドルスのこの箇所以外の用例が確認できなかった。

  8. ナゾラ派ともいう。エピファニオス『薬籠』29章で扱われている。この一派は『使徒行伝』24:5にあるパウロたちユダヤ教ナゾラ派とは別グループ。またナゾラとナザレの関係については以下の論文を参照。
    大貫 隆、「原典と翻訳」、『言語と身体 聖なるものの場と媒体』(岩波講座宗教5)収録、pp. 53–78、2004.

  9. 旧約の律法のこと。

  10. グノーシス主義の一派。

  11. アダムとイブのいた楽園のこと。

イシドルス『語源』翻訳 VIII-6: 19-23『異教徒である哲学者について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

イシドルス『語源』翻訳 VIII-6: 1-10『異教徒である哲学者について』 - Asinus's blog イシドルス『語源』翻訳 VIII-6: 11-17『異教徒である哲学者について』 - Asinus's blog

この記事でこの章は終わりである。

脚注は不完全であり改訂予定である。

翻訳

[異教徒の]神学者(theologus)とは自然学者のことである。Theologusと呼ばれるのは彼らの文書(scriptus)で神(deus, θεός)について述べているからである。彼らの探求において神が何であるかということについてはさまざまな見解がある。ある人々は、四元素からなる、肉体の感覚によって見られ得るこの世界が神であると言った。例えばストア派ディオニュシオスがそうである。そして他には魂(mens)が神であると精神的に理解した人々がいる。例えばミレトスのタレスがそうである。ある人々は万物のうちに留まっている透明な霊魂(animus)が神であると言った。例えばピタゴラスがそうである。ある人々は神は時間的ではなく不変であると言った。例えばプラトンがそうである1。ある人々は自由な魂が神であると言った。例えばキケロがそうである。ある人々は霊(spiritus)と魂が神であると言った。例えばマローがそうである2。彼らはどのように神を見出したかではなく、ひとつの観点から自分が見出したような神についてだけ語っていた。なぜなら彼らは思索において空しくなったからである。自分自身のことを知者と呼ぶ者は愚か者となるのである3

プラトン主義者たちは神は監督者(curator)であり4、審判者(arbiter)であり、裁判官(judex)5であると主張した。エピクロス派は神は[我々に]無関心であり、活動していないと主張した。さらに世界についてプラトン主義者たちは非物質的であると断言した。ストア派は物質的であると断言した6エピクロス派は原子からなると断言した。ピュタゴラス派は数からなると断言した。ヘラクレイトス派は火からなると断言した。

そこからウァロも世界霊魂が火であると言っている。それゆえ、我々において魂がすべてを支配しているように、世界において火が万物を支配していると彼は言っている。何とくだらぬことを彼は言うのだろうか。「火が我々の内にあるときは我々は生きている。火が我々から出ていくときには、我々は死ぬ」。 それゆえ、火が世界から稲妻を伴って離れる時、世界は消滅する。

これらの[異教の]哲学者たちの誤謬を教会へと持ち込んだのは異端の者どもである。これらの誤謬からαἰῶνες(アイオーン)7と私が知らない形式(formae)[が導入された] 。さらにアリウスにおける名前だけの三位一体とヴァレンティノスにおけるプラトン学派の熱狂[も導入された]。さらにマルキオンの、三位一体においてより優越した神[が導入された]。なぜならこれはストア派に由来しているからである。魂は消滅すると[異端者によって]言われる時、エピクロスが見出される。そして肉体の復活が否定される時、すべての哲学者たちの中の空しい教えから取られているのである。神が物体と等しくされる時には、ゼノンの教えが介在している。そして火の神についての何かが書かれている時には、ヘラクレイトスが介在している。異端者と哲学者の間で同じ主題が鳴り響いている時、繰り返された同じ思想が関係しているのである。


  1. cf. プラトンティマイオス』34A.

  2. ウェルギリウス(Publius Vergilius Maro)のこと。

  3. 『ローマ人への手紙』1:21-23.
    「彼らは神を知りながらも、[その神に]神としての栄光を帰すことも感謝することもせず、むしろ彼らの思考は虚しいものとされ、彼らの理解なき心は暗黒にさせられたからである。彼らは自ら知者であると断言しながら、愚かにされ、不朽なる神の栄光を朽ちゆく人間や鳥や[四本足の]獣や血を這う生き物の像に似通ったものに変えたのである。」(新約聖書翻訳委員会訳)

  4. cf. プラトンパイドン』62D.

  5. cf. プラトンゴルギアス』524A, 『パイドン』113D-E, 『国家』614C-615D.

  6. cf. キケロ『アカデミカ後書』XI.
    「しかしゼノンは、何らかの作用を及ぼすものも受けるものも物体以外ではありえないと考えた。」(中川純男訳)
    https://phil.flet.keio.ac.jp/person/nakagawa/acpost_i.html

  7. このαἰώνについてはヴァレンティヌスが導入した思想として、VIII-5:11『キリスト教の異端について』で説明されている。そこではヴァレンティヌスはプラトンの信奉者だと説明されている。

イシドルス『語源』翻訳 VIII-6: 11-17『異教徒である哲学者について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

イシドルス『語源』翻訳 VIII-6: 1-10『異教徒である哲学者について』 - Asinus's blog

脚注は不完全であり改訂予定である。

翻訳

アカデメイア派はアテナイにあるプラトンアカデメイアの施設に由来してそのように呼ばれる。アカデメイアではプラトン自身も教えた。彼ら[アカデメイア派]はすべては疑わしいと考えた。しかし、神が人間の知性を超え出ているように欲した多くの物事が[人間にとって]疑わしく隠されているのを認めなければならないのと同じように、非常に多くの物事が感覚によって知覚され得て、理性によって把握され得ることも認めなければならない1。キュレネのアルケシラオスがこの学派を創始した。デモクリトスはアルケシラオスの弟子であった2。彼は言った。「いわば底のない古い井戸のような、隠れたところに真理はある。3」(tamquam in puteo alto, ita ut fundus nullus sit, ita in occulto iacere veritatem.)

逍遥学派(ペリパトス派)は逍遥(deambulatio)に由来してそのように呼ばれる4。なぜならその創始者であるアリストテレスは逍遥しながら議論する慣わしだったからである。彼らは次のように述べている。「魂のある部分は永遠(不死)であり、残りの大部分は可死的である」

キュニコス派は恥知らずな汚らしさに由来して5そのように呼ばれる。なぜなら人間的な慎みに反して、公然と妻と交わるのが彼らの習慣だったからである。妻と公然と交わることは正当なことで高潔なことだと彼らは主張していた。性交することは正当なことなのだという理由で、犬のように通りで公然と性交するべきだと彼らは説いていた。そこから[学派の]通り名と名前を彼らが生活を真似ているところの犬から得ていたのである。

エピクロス派は、知恵ではなく虚偽を愛する哲学者であるエピクロスに由来してそのように呼ばれる。哲学者たち自身がエピクロスのことを「豚」と呼んでいた6。あたかも[豚が]泥浴びをしているようであり、肉体的な快が最高善であると主張していたからである。さらにエピクロスは次のように言っている。「いかなる神の摂理によっても世界は制定も統治もされてもいない。」7 だが一方で彼は事物の起源を原子、つまり分割できない固体である物質に割り当てている。この原子が偶然に衝突することで宇宙は生まれ生じたのである。さらに彼ら8は次のように主張している。「神は何もしていない。万物は物質からできている。魂は物質と異ならない。」 そこから次のようにも言っている。「私が死んだ後には、私は存在しないだろう」9

人目のつかないインドの荒野において陰部の覆いのみをつけて裸で哲学をする人々は裸の賢者(Gymnosophista)10と呼ばれる。なぜならGymnasium(体育場)はマルスの野で青年が陰部のみ覆って裸で(nudus, γυμνός)訓練することに由来してそのように言われる。裸の賢者は生殖をも断っている。


  1. アカデメイア派の学説に対する反論に話が移っている。
  2. Barney et al. 注7, p.179.
    "Arcesilaus or Arcesilas, founder of the Middle Academy, was from Pitane in Aeolia, not Cyrene in Libya, but there was a line of kings in Cyrene with the name Arcesilas. There was also a school known as Cyrenaics, but Arcesilaus was apparently not a member of this. This Democritus is distinct from the more famous Democritus of Abdera."
    [訳者注] アルケシラオスの地名の間違いはキュレネのラキュデスやキュレネのカルネアデスと同じ場所と考えられたからかもしれない (cf. キケロ『アカデミカ前書』VI. 16)。イシドルスのこの箇所のアルケラオスアカデメイア派の創始者に位置付けられていることから、テキストの内容上はキュレネにいた同名のアルケラオスのことではあり得ない。この箇所のデモクリトスの引用はアブデラのデモクリトスの断片から説明がつくので、この箇所のデモクリトスはアブデラのデモクリトス本人であると考える。
  3. cf. DK117 (『ギリシア哲学者列伝』IX 72). 断片の表現との違いについては次のことが知られている。
    ラクタンティウスがInstitutionum, 27でデモクリトス断片のἐν βυθῷ (深みに)を'in puteo' (井戸の中に)と訳している。 (H.G. Huebner, Diogenes Laertius: De vitis, dogmatis, et apophthegmatis clarorum philosophorum libri decem, vol. 4. 1833.)
    cf. 虚無と美 : ポーの詩論における唯物論的背景, 伊達 立晶, 2002. Osaka University Knowledge Archive (OUKA)
    DK117.
    デモクリトスは性質を追放して、「熱いは慣わしによること、冷たいは慣わしによること、本当は原子と空虚〔あるのみ〕」といっている。そしてさらに「本当はわれわれは何も知ってはいないのであって、真理は深みに沈んでいる」と。
    〔参照〕キケロ(『アカデミカ第一』II 10, 32)
    自然を責めよ。というのも、自然は、デモクリトスのいうように、真理をはるかな深みに隠したのだから。
  4. cf. περιπατητικός.
  5. 犬(κύων)が連想されている。
  6. cf. ホラティウス『書簡詩』1:4.
    「私は肥えて肌の手入れもよく艶々しています。どうか訪ねてください。
    笑ってやってください、エピクロース派の豚になっていますから。」(高橋宏幸訳)
    Q. Horatius Flaccus (Horace), Epistles, book 1, poem 4
    cf. キケロ『ピーソー弾劾』37.
    M. Tullius Cicero, Against Piso, section 37
  7. 以下はエピクロス主義者の思想
  8. cf.『哲学者列伝』 X 123, 139 (『主要教説』1).
    DL X123. 「まず第一に、神についての共通な観念が人々の心に銘記されているとおりに、神は不滅で至福な生き物であると信じて、神の不滅性とは無縁なことも、またその至福性にはふさわしくないことも、何ひとつ神に押しつけてはならない。」(以下加来彰俊訳)
    DL X139. 「至福にして不滅なるもの(神)は、そのもの自身が煩いを持つこともなければ、他のものに煩いをもたらすこともない。したがって、怒りにかられることもなければ、好意にほだされることもない。なぜなら、そのようなことはすべて、弱い者のみにあることだから。」
  9. cf.『哲学者列伝』 X 124 (『主要教説』2).
    DL X124.「死はわれわれにとって何ものでもないと考えることに慣れるようにしたまえ。というのは、善いことや悪いことはすべて感覚にぞくすることであるが、死とはまさにその感覚が失われることだからである。それゆえ、死はわれわれにとって何ものでもないと正しく認識するなら、その認識は、死すべきものであるこの生を楽しいものにしてくれるが、それは、この生に無限の時間を付け加えることによってでなく、不死への(空しい)憧れを取り除くことによってそうするのである。」
  10. γυμνός (裸の) + σοφιστής (賢者). cf. 『哲学者列伝』I 6, 9.

イシドルス『語源』翻訳 VIII-6: 1-10『異教徒である哲学者について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

本章では哲学者に関してだけでなく哲学に対する説明もなされ、II-24と内容上重複がある。

イシドルス『語源』翻訳 II-24 哲学の定義について - Asinus's blog

翻訳

philosophi(哲学者)1ギリシア語であり、ラテン語ではamatores sapientiae (知恵を愛する者)と翻訳される。

哲学者とは神的な事柄と人間的な事柄に関する知識があり、すべてのよく生きるための小道に通じている者のことである。

(Est enim philosophus qui divinarum et humanarum < rerum > scientiam habet, et omnem bene vivendi tramitem tenet.)

哲学者(philosophus)という名称はピュタゴラスが初めて用いたと言い伝えられている2。一方、昔のギリシア人はかつて自分たちのことを自慢げにsophistes(σοφιστής, 知者)あるいはdoctor sapientiae (知恵の教師)と呼んでいた。ピュタゴラスは自分のことを何と名乗っているのかと尋ねられた。彼は慎みのある言葉で「知恵を愛する者(philosophus)だ」、つまりamatores sapientiae、と答えた。なぜなら彼には知者と自称するのは非常に傲慢であるように思われたからである。それから後の人々は、知恵を目指すことについての各人の教えが、どれほど自分自身あるいは他人にとって優れているように思われようとも、哲学者(philosophus)以外の名前で呼ばれることを好まなくなった。

哲学は三つの種に分割される。それは自然学(Physicus)と倫理学(Ethicus)と論理学(Logicus)である3。自然学(Physicus)は自然について探究することからそのように呼ばれる。なぜなら自然(natura)はギリシア語ではφύσις(physis)と呼ばれるからである。倫理学(Ethicus)は倫理について議論をするのでそのように呼ばれる。なぜなら倫理(mores)をギリシア人はἤθη(ēthē)4と呼んでいるからである。論理学(Logicus)は自然についての言論と倫理についての言論を結びつけることからそのように呼ばれる。なぜなら言論(ratio)はギリシア語ではλόγος(logos)と呼ばれるからである。

これら三つの分野は哲学者の学派によってもさらに分割される。これらの学派の内には創始者の名前が付いているものがある。それはプラトン学派、エピクロス派、ピュタゴラス派がそうである。その他の学派の名前は彼らの集会所や休息所の名前に由来している。例えばペリパトス派やストア派アカデメイア派がそうである。

プラトン学派は哲学者プラトンに由来してそのように呼ばれる。この学派は神が魂の創造者であり、天使が肉体の創造者であると主張している。さらに幾年もの輪廻転生によって様々な肉体に魂が還っていくとも主張している5

ストア派は場所に由来してそのように呼ばれる。なぜなら柱廊(porticus, στοά)がアテナイにあって、彼らはποικίλη στοά (彩色柱廊)と呼んでいたからである。彩色柱廊には賢人たちの偉業や勇敢な男たちの歴史が描かれている。この柱廊で知者たちが哲学を行なった。そこから彼らはストア派と呼ばれるようになった。なぜならギリシア語ではporticus(柱廊)はστοά (stoa)と呼ばれるからである。ゼノンがこの学派を創始した。彼ら6は徳なしに人が幸福となることを否定した。さらに、すべての罪は結合した仕方であると主張し、次のように言った。「籾殻を盗んだ者は金を盗んだ者と同じく罪人である。海鳥を殺した者は馬を殺した者と同じく罪人である。それは動物であるから犯罪であるのではなく、その意志が犯罪とするのである。」さらに彼らは次のように言った。「魂は肉体と共に消滅する。魂もまた・・・7」 彼らは節制の徳があることを否定した。彼らは永遠なる栄光(gloria aeterna)を熱望しているが、そのことと共に永遠なるものが存在しないことを認めている。


  1. 単数形はphilosophus. Gr. φιλόσοφοςはφίλος + σοφος (愛する人 + 知).

  2. アウグスティヌス神の国』8:2.
    「イタリア学派の創始者はサモスのピュタゴラスである。哲学という名称そのものもまたピュタゴラスに起源を持っている。というのは、ピュタゴラスの時代以前、賞賛に価する生活態度ゆえに他の者たちにぬきんでていたとみなされていた人々は知者と呼ばれていたけれども、彼が「貴殿は何を専門としているのか」と尋ねられたとき、「自分は哲学者である」と答えたのである。つまり、「知恵を探究する者」であり、「知恵を愛する者」であると答えた。その理由は、知者だと自称することはたいへん高慢に思えたからである。」(アウグスティヌス著作集訳)

  3. II-24ではphysica etc.で女性形だがここでは男性形となっている。アウグスティヌス神の国』では女性形が用いられている。

  4. 複数中性形。男性単数形はἦθος.

  5. cf. 『国家』10巻「エルの神話」、『パイドロス』113A.

  6. 以下の思想内容の主語は複数形。

  7. Barney et al. 注6, p.179.
    “The faulty text here may be emended: ”… perishes with the body. They also love the virtue of temperance. They aspire to …“ The emendation would obviously accord with Stoicism.”

イシドルス『語源』翻訳 I-29『語源について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。

本章から「語源」に対するイシドルスの理解を知ることができる。そのため本章は『語源』全体を理解するために重要な箇所である。

翻訳

語源とは動詞あるいは名詞の力が解釈によって得られた場合における名前の起源である。これをアリストテレスはσύμβολονと名付け、キケロはadnotatioと名付けた1。なぜなら範例が提示されることによって、事物の名前や用語が知られる(notus)からである。例えば「流れ」(flumen)は流れることによって把握されるので、「流れること」(fluendum)に由来してそのように呼ばれる。語源を知ることにはその名前の解釈において、必要不可欠な有用性が常にある。なぜならもしどこからその名前が生じたのかを理解したならば、その名前の力をすぐに理解することができるからである。つまり、語源を知っているときには、いかなるものに対しても洞察(inspectio)はより明確である2。古の人々によってすべての名前が自然に従って(secundum naturam)定められた訳ではなく、取り決めによって(secundum placitum)定められたものもある。これは我々が時には好みによって付けたい名前を自分の奴隷や所有物に付けるのと同じである。それゆえ、すべての名前の語源が得られるのではない。なぜなら一部の事物はそのものが生まれつき備えている質によって名前を得ているのではなく、人間の自由な判断によって名前を得ているからである。

名前の語源は原因(causa)によって与えられているか3、例えば'rex'(王)は<regendum(支配すること)と>recte agendum (正しく行うこと)に由来している。あるいは起源によって与えられている。例えば'homo'(人間)は'humo'(塵)に由来している4。あるいは反対によって与えられている。例えば'lutum'(泥)は'lavare'(洗うこと, 完了分詞: lautus)に由来しているが、泥はきれいではない。'lucus'(森)も反対のものに由来している。なぜなら日影によって暗くて、ほとんど明るく(lucere)ないからである。 そして語源のあるものは名前の派生形によって与えられている。例えば'prudens'(adj. 思慮のある)'は'prudentia'(nom. 思慮)に由来している。あるものは音声5によって与えられている。例えば'garrulus'(饒舌な)はgarrulitas(饒舌)に由来している。あるものはギリシア語の語源に由来しており、ラテン語で屈曲する。例えば'silva'(森)や'domus'(家)がそうである6。さらに他の名前は地名、都市名あるいは河名に由来した名前である。そして多くの名前は様々な民族の言葉で呼ばれている。それゆえ、それらの名前の起源はほとんど分からない。つまりラテン語話者とギリシア語話者には理解できないとても多くの異国の名前があるのである。


  1. キケロ『トピカ』35 .
    「多くの論拠が、語源(notatio)から引き出される。ところで、語源は、論拠が言葉の意味から引き出すときに、用いられる。ギリシア人は、これをエチュモロギア(etymologia)[語の本義]と呼んでおり、これをラテン語に逐語訳すれば、ウェイロクィウム(veriloquium)である。しかし、われわれは、あまり適切でない新語を避けて、この類をノタティオ(notatio)と呼ぶ。なぜなら語というのは、事物の記号だからである。それゆえ、アリストテレスも同様に、ラテン語で記号(nota)のことである、シュンボロン(symbolon)[しるし、象徴、記号]と呼んでいる。しかし、何が意味されているかわかっているなら、言葉を選ぶ必要はない。」(吉原達也訳)

  2. Barney et al. 注30, p.55
    “Fontaine 1981:100 notes that this sentence is adapted from a legal maxim cited by Tertullian De Fuge 1.2: "Indeed, one’s insight into anything is clearer when its author is known” - substituting etymologia cognita for auctore cognito“.

  3. 以下の語源の種類の列挙はトポスの列挙と類似している。

  4. cf. 『語源』X-1.
    イシドルス『語源』翻訳 X-1: 1-5『人間と怪異について』 - Asinus's blog

  5. 音声の類似のことか。イシドルスのこの例は派生形で説明できる。

  6. silvaに対応するギリシア語はὕλη、domusはギリシア語のδόμοςと同祖先(PIE *dōm)である。