Asinus's blog

西牟田祐樹のブログです。

パンの講話: ヨハネ福音書6.32の解釈

ヨハネ6.32

εἶπεν οὖν αὐτοῖς ὁ Ἰησοῦς· ἀμὴν ἀμὴν λέγω ὑμῖν, οὐ Μωϋσῆς δέδωκεν ὑμῖν τὸν ἄρτον ἐκ τοῦ οὐρανοῦ, ἀλλ’ ὁ πατήρ μου δίδωσιν ὑμῖν τὸν ἄρτον ἐκ τοῦ οὐρανοῦ τὸν ἀληθινόν·

[NRSV] Then Jesus said to them, “Very truly, I tell you, it was not Moses who gave you the bread from heaven, but it is my Father who gives you the true bread from heaven. (あなたがたに天からパンを与えたのはモーセではない。あなたがたに天からまことのパンを与えるのは私の父である。)

[新共同訳] すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。

[新約聖書翻訳委員会訳(小林稔訳)] すると、イエスは彼らに言った、モーセがあなたがたに天からのパンを与えた[、そしてあなたがたがそれを持っているという]のではない。私の父があなたがたに天から本物のパンを与えつつある。

小林訳のこの箇所に関する注釈で、天からのパンは律法を意味すると説明している。本記事ではこの解釈の根拠について考察する。以下ではモーセが天から与えたとされるパンはマナと書くことにする。マナは以下の特徴を持つ。1.マナは預言者モーセの行ったとされる徴である(6.30-31)。2.マナを食べた父祖は死んだ(6.49)。出エジプト記より、3. 四十年間荒野での食糧であった(出16:35)、つまり人々がそれによって生きた(命を繋いだ)ものである。

最初に「天からの真のパン」について考察しよう。

「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6.33-35)

「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(6.47-51)

「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(6.57-58)

6.51等で明確に天からの真のパンはイエス・キリストであることが述べられる。よって、天からの真のパンは将来に与えられるのではなく、現在既に与えられていることになる。そして、イエス・キリストを通じて永遠の命が与えられるので、二次的に天からの真のパンが永遠の生命の比喩だと解釈し得る。また、マナを食べた父祖が死んだということは、父祖が永遠の命を得ていなかったということを意味する。

小林稔氏は6.35に次の注釈を付けている。「ここでの約束は箴九5、シラ書二四21を前提にしているようである1。とすると、知恵とイエスが重ねられていることになり、これと対照される32節の「モーセが天から与え、ユダヤ人が持っているパン」は律法を意味することとなろう(バルク書四1参照)。」

バルク書4.1は以下のようになっている。

「知恵は神の掟の書、永遠に続く律法(νόμος)である。これを堅く保つ者は皆、命に至りこれを捨てる者は死に至る。」(バルク書4.1)

ここでは知恵が永遠に続く律法だと述べられており、知恵と律法が対比されているわけではない。マナと真のパンの両方が律法だということになってしまうので、解釈の根拠として不十分である。

ヨハネ福音書内で根拠となり得る二箇所を以下で検討する。

ヨハネ1.17

「私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理(ἡ χάρις καὶ ἡ ἀλήθεια)はイエス・キリストを通して現れたからである。」

恵みと真理に永遠の命が含まれているならば、6.32に適合する。ただし、「恵み」と「真理」のヨハネ内での言及箇所が少ないことから2、恵みと真理をどう解釈すれば良いのかは明確ではない点が難点である。真理については、ヨハネ14.6「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」で、真理と命が並置されている。

根拠としてもう一箇所検討しよう。パンの講話の少し前にある5.39である。

ヨハネ5.39

あなたたちは聖書(γραφά)の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

律法(律法書、聖書)が永遠の命を与えるではなく、イエスが永遠の命を与えるということである。ここでは永遠の命に関して、聖書(律法)とイエス・キリストが対比されている。

パラフレーズ

マナの特徴より、6.32を(a)のように読むことができる。マナを律法と解釈し5.39を用いると、6.32は(b)のように読むことができる。

(a)「父祖の命をあなたがたに与えたのはモーセではなく私の父である。さらに、私の父は私を通じて永遠の命をも与える。」

(b)「永遠の命を与えると考えられている律法をあなたがたに与えたのはモーセではなく、私の父である。さらに、私の父は真の永遠の命である私をあなたがたに与える。」

テキスト

新共同訳

ヨハネによる福音書 5 | 新共同訳 聖書 | YouVersion

ヨハネによる福音書 6 | 新共同訳 聖書 | YouVersion

聖書本文検索 - 日本聖書協会ホームページ

ギリシア語原文(NA28)

Read the Bible text :: academic-bible.com

特に明記していない聖書からの引用は新共同訳を用いている。


  1. 箴言9.5では女性として擬人化された知恵が次のように語る、「さあ、私のパンを食べなさい。そして、私の混ぜ合わせた葡萄酒を飲みなさい」。シラ24.21では擬人化された知恵が自分を様々な木に例え、次のように語る、「私を慕う者たちよ、私のもとに来て私の実で腹を満たすがよい。私の思い出は蜜よりも甘く私の遺産は、蜂の巣から滴る蜜よりも甘い。」
  2. 「恵み」はヨハネでは1章にしか現れていない。

『童蒙をしへ草』でのソクラテス像

福沢諭吉『童蒙をしへ草』巻の三「怒の心を程能くし物事に堪忍し人の罪を免す事」の第十五章で、ソクラテスの怒りに関する逸話が出てくる1。読んでみるとプラトンの対話編ではソクラテスが言わなそうなことが、書かれていることにすぐに気づくだろう。そこで、この章に含まれる逸話の古代における出どころを調べてみる。

結論から先に書くと、をしへ草での逸話はソクラテスと同時代の一次資料であるプラトン、クセノフォン、アリストファネスの著作のいずれにも直接は由来していない2。つまり、をしへ草の逸話は後の時代に賢人であるソクラテスの逸話とされたものであるので、創作である。セネカが『怒りについて』でソクラテスに言及している箇所と、ディオゲネス・ラエルティオスの逸話の二つの資料が主に用いられている。セネカを情報源としていることにより、をしへ草でのソクラテス像は、ストア派が描く理想像(賢者)に近いものとなっている3

翻訳

をしへ草の翻訳元となったThe Moral-Class Bookから訳出する。福沢諭吉の翻訳と原典では内容上重要な相違はない。

ギリシアの哲学者ソクラテスには、怒りやすいという気質を抑制する力を身につけたという点で稀有な人でした。

彼は友人に、怒り出しそうになったのを見た時は知らせてくれるように頼んでいました。友人によれば、彼の怒りの最初の兆候は、声の調子を和らげ、無口になることでした。

奴隷に対する激しい怒りに気づいた時、「もし怒っていなかったら、お前を打ったのだが」と言いいました。

耳を拳固で殴られた時、「いつ兜をつけていればいいか分からないのは厄介なことだ」と微笑みながら言うだけで満足しました。

ソクラテスは身分の高い人に人に道で会い、挨拶をしました。けれども、その人は無視しました。一緒にいて側で見ていたソクラテスの友人は、「あの人の無礼はひどく腹立たしいんで、僕らはとても憤慨しているよ」と言いました。けれども、彼はとても穏やかにこう答えました。「もし君たちが道で、君よりも体の性質が悪い人に会ったならば、そのことで君たちは怒る理由があると思うかい。もしないならば一体、君たちよりも心の性質がもっと悪い人に激怒する、どんなもっと大きな理由があり得るんだい。」

しかし、彼は家に出なくても、すべての点で十分に忍耐を培うことができると考えていました。粗探し家で、激情家で、激しい気性である妻のクサンティッペが、このことの紛れもない証拠でした。こんなに激しく、気狂いじみていて、気性難な女性は他に類を見ませんでした。彼女から被らなかったいかなる種類の罵りや不当な仕打ちもありませんでした。ある時、彼女はソクラテスに対する怒りに満ちていたので、通りで彼の上着を引き裂きました。その時、彼の友人はこんな仕打ちは我慢ならない、一発お見舞いしてやるべきだとソクラテスに言いました。「まったく、いい競技だろうさ、彼女と僕が互いに殴り合っている間、君たちがこの勝負を囃し立てるならば。誰かが『よくやった、ソクラテス』と叫べば、別の誰かが『いいパンチだ、クサンティッペ』と叫ぶならば。」

またある時、彼女の怒りが伝え得たあらゆる雑言が噴き出した時、彼は外に出て、玄関の前に座っていました。彼の穏やかで無関心な振る舞いがより一層彼女を苛立たせました。そして、彼女は怒り余って、階段を駆け上り、桶いっぱいの汚水を彼の頭にぶっかけました。それに対し、彼はただ笑って言いました。「こんなに雷が落ちたんだから、雨が降るに決まっているさ。」

古代での情報源

上の話に対応する順序で対応する情報源を紹介する。

キケロトゥスクルム荘対談集』4.80

ゾーピュロスは、いかなる相手の本性も外見から見抜くことができると自慢していたが、あるとき公衆の面前でソークラテースの欠点を次から次へと数え上げた。多くの者は、そのような欠点などソークラテースには認められないと言って笑ったが、ソークラテース自身がこう助け舟を出した。つまり、自分は生まれつきそのような点をもっていたが、理性の力で払いのけたのだ、と語ったのである。

セネカ『怒りについて』3.13.3

ソークラテースの場合、怒りの徴は声が低くなること、口数が少なくなることであった。そのとき、彼が自分に抗っているのが窺えた。だから、親しい人々もそれと分かって指摘したし、隠れた怒りに対する叱責は彼にとってもありがたかった。どうして嬉しくなかったことがあろう。多くの人が自分の怒りに気づいていながら、誰もそれを感じないのだから。だが、仮にもし彼が友人たちに自分を叱る権利を与えていなかったならばー彼自身、友人に対するその権利を自分に与えていたのだがー、彼らは彼の怒りを感じたに違いない。

セネカ『怒りについて』1.15.3

まして、罰する者が怒るなど、とんでもない。懲罰は、冷静な判断によって科せられている場合、矯正の効果が増大するものである。ソークラテースが奴隷に向かって、「もしも私が怒っていなかったら、お前を打ったところだ」と言ったのも、このためである。そのとき、彼は、奴隷に対する叱責を正気の時に延期して、自分自身を叱ったのだ。それにしても、抑制の利いた情念など、いったい誰にあるというのか。ソークラテースすら、自分を怒りに託そうとはしなかったのに。

兼利琢也氏の注には以下のようにある。

「この逸話は、別伝(ウァレリウス・マクシムス『著名言行録』4.1.外国篇1、キケロー『トゥスクルム荘対談集』4.78ほか)ではピュータゴラース派のアルキュータースに帰されており、ソークラテースとするのはセネカだけである。同様なプラトーンの逸話は、『怒りについて』第3巻12章5-6節参照。」

逸話をソクラテスに帰しているのがセネカだけであるので、をしへ草の逸話にはセネカが用いられたのが確定する。

セネカ『怒りについて』3.11.2-3

怒りは多くの仕方で阻止しなければならない。たいていは戯れや冗談に変えるのがよい。ソークラテースは、拳固で殴られたとき、ただこう言って済ませたとのことだ。人がいつ兜をかぶって外出すべきなのか分からないとは厄介なことだ、と4

セネカ『怒りについて』2.10.1-3

むしろ、誤りに対して怒るべきではないと思いたまえ。もし誰かが、暗闇の中に覚束ぬ足取りで歩む人に怒るとしたらどうだ。耳の聞こえない人が命令を聞いていないのならどうだ。子供が果たすべき務めを気に留めず、遊びや仲間同士の他愛ない戯れに熱中しているならどうだ。病気の人、高齢の人、疲労困憊する人に怒るとしたならばどうだ。死すべき人間の数多の災いには、心の靄と不可避の誤りに加え、誤りの愛好すら含まれる。<中略>

われわれはこんな条件の下に生まれている。体の病に数で劣らぬ心の病に罹りやすい動物、鈍くものろくもないが、己の才知を悪用する動物、互いが互いの悪徳の手本でしかない動物だ。

「徳は高潔な事柄に好意を抱く。それと同様に、卑劣な事柄には怒ってしかるべきだ」という見解(2.6.1, p.138)に対して、賢者は他人の過ちに対して怒ることはないということをセネカは説明する。その説明において上記の一節が現れる。ここではソクラテスに言及していないが、をしへ草にある逸話は思想内容的にはこの一節と合致する。この記述が逸話化されたと考えることが可能である。

ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』2.5.37

あるとき彼女が、広場で彼の上衣までも剥ぎ取ろうとしたとき、(そばにいた)彼の知人たちが、手で防いだらどうかと勧めた。すると彼は、「そうだよね。われわれが殴り合っている間、諸君の一人ひとりが、『それ行け、ソクラテス!』『そらやれ、クサンティッペ!』と囃し立ててくれるためにはね」と答えた。 彼はよく、気性の激しい女と一緒に暮らすのは、ちょうど騎手がじゃじゃ馬と暮らすようなものだと言っていた。「しかし、彼ら騎手たちがこれらの馬を手なずけるなら、他の馬もらくらく乗りこなせるように、ぼくもまたそのとおりで、クサンティッペとつき合っていれば、他の人びととはうまくやれるだろう」と言ったのである。

ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』2.5.36

初めのうちはがみがみと小言を言っていたが、のちには彼に水をぶっかけさえしたクサンティッペに対して、彼はこう応じた。「ほうら、言っていたではないか。クサンティッペがゴロゴロと鳴り出したら、雨を降らせるぞと。」

その他関連箇所

プルタルコス『怒りを抑えることについて』445A-B

ソクラテスが、自分は友人の誰かに不快の念を募らせていると感ずることがあると、そのたびに、

波洗う岬を超えて嵐が来る前に

態勢を整え、声の調子を落として顔には笑みを浮かべ、まなざしを一段と穏やかにしていたのも、そのためである。すなわち、もう一方の側に傾きを見せ、感情とは正反対の方向に動くことにより、自分自身を、過つことも感情に負けることもないよう守り通そうとしていたのである。

クセノフォン『饗宴』2.10

すると、アンティステネスが「それでは、ソクラテス」と言った。「そういう認識をもちながら、どうしてあなたもクサンティッペを教育せず、現在いる女たちの中で、そして私の思うに、これまで過去にいた女たち、また将来いるであろう女たちの中で、最も扱いにくい女と生活を共にしているのですか」

ソクラテスが答えるには、「それは、すぐれた騎手にならんとする者どもも、最も従順な馬ではなく、むしろ気性の荒い馬を手に入れるのを私は見ているからだ。彼らはそういう馬を制御できれば、他の馬はたやすく扱えるだろうと考えているのだから。それで、私もまた人間を扱い、人間と交際したいと思って、あの女を得ているのだが、それは、あの女に耐えうれば、私は他のすべての人間とたやすく一緒にいられるだろうということをよく知ってのことだ。」

クセノフォン『ソクラテスの思い出』2.2.7 ソクラテスと息子のランプロクレスとの対話で、息子が母親のことを「あの人の気難しさには誰も我慢できないに違いないよ」とまで言う(p.111)。

参考文献

現代語訳 童蒙おしえ草 ひびのおしえ、福沢諭吉著 岩崎弘訳、角川文庫、2006.

怒りについて、セネカ著 兼利琢也訳、岩波書店、2008.

キケロー選集 12 哲学V トゥスクルム荘対談集、キケロー著 木村健治・岩谷智 訳、岩波書店、2002.

ギリシア哲学者列伝(中)、ディオゲネス・ラエルティオス著 加来 彰俊訳、岩波書店、1967.

モラリア6, プルタルコス著 戸塚七郎訳、西洋古典叢書、2000.

ソクラテスの思い出、クセノフォン著 相澤康隆訳、光文社、2022.

ソクラテスの弁明 饗宴、クセノポン著 船木英哲訳、 文芸社、2006.

童蒙をしへ草. 初編. 三 | 慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクションDigital Collections of Keio University Libraries

The moral class-book : Chambers, W : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

M. Tullius Cicero, Tusculanae Disputationes, book 4, section 80


  1. 前回の『童蒙をしへ草』に関する記事はこちら。
    アナピアスとアンフィノムス - Asinus's blog
    正確にはをしへ草の翻訳元のThe Moral-Class Bookに書かれている内容だが、煩雑さを避けるためこの記事では区別せずに「をしへ草の逸話」と呼ぶことにする。この記事での引用はすべて参考文献に挙げられている文献による。ページ数も同様。
  2. ただし(悪)妻クサンティッペの性格のみはクセノポンに含まれている記述と一致する。
  3. セネカ『幸福な生について』25.4では「かのソークラテースなら、君にこう語るはずだ」という前置きで、セネカ自身の思想が語られる(26.4以下も同様)。セネカソクラテスを賢者のように見なしている。
  4. 兼利琢也氏の注には以下のようにある(p.351)。
    このソークラテースの逸話は、ディオゲネース・ラエルティオス『哲学者列伝』6.41では、キュニコス派の祖シノーペーのディオゲネースに帰されている。」

アナピアスとアンフィノムス

福沢諭吉の子供向けの本『童蒙をしへ草』は、チェンバース(William Chambers and Robert Chambers)のThe Moral Class-book (1839)の翻訳であり、イソップ寓話を含め、西洋古典の話も含まれている。その中で、第二章(ロ)には、親を大切にする若者の話として、アナピアスとアンフィノムス(Anaphias and Amphinomus)の逸話が取り上げられている。この話は聞いたことがなかったので、その逸話の出どころについて調べてみた。残念ながらチェンバースが依拠した資料と伝承経路については調べがつかなかったが、ギリシア・ローマ時代の著作の中に、そのいくつかの出どころは見つかった。

その逸話とは以下のような話である1

アナピアスとアンフィノムス

火山とは頂上が窪んでいて、そこから煙や、炎や、岩石や、溶岩が、時に非常な激しさで吹き出すような山のことです。シチリアのエトナ山は、ヨーロッパで最も有名な火山です。何百年も前、いつになく激しい噴火が、この山に起きました。燃え盛る噴火物が、さまざまな方向に降り注ぎ、村全体を打ちこわし、空気は噴石と灰に覆われました。近隣の国の住民は、最も価値のある財産を持って、命を守るために避難しました。そのような自分の財産をたいそう気にする人々の中に、彼らとはたいそう異なる種類の重荷を背負った、アナピアスとアンフィノムスという二人の若者がおりました。彼らは年老いた両親のみを背負っていました。両親を他の仕方では守れなかったのです。

この若者たちの行いは、たいへんな賞賛を引き起こしました。彼らはたまたま、周りは焼け焦げ真っ黒となっているのに、彼らの選んだ道は噴火物が落ちてこず、噴火後も緑のままでした。ひどく無知であるが良い心を持った人たちは、若者たちの善い心のために、奇跡によってこの野原は守られたのだと信じていました。そして、この道は以降、孝行の野と呼ばれていました。

福沢諭吉の翻訳と原文との重要な異同は特にない。

ギリシア・ローマでの情報源

この話は今ではマイナーだが、当時有名だったようで複数の文献に現れていた。このエトナ山の噴火とはBC.122の大噴火のことである。以下、順不同で紹介する2

パウサニアス『ギリシア案内記』10.28.4

カロンの船のちょうど真下に当たるアケロンの川岸に親不孝者の男がいて、父親に喉首を締めつけられている。昔の人たちは両親をとても大切にしたものであって、いろいろと事例はあるが、とくにカタナ市のいわゆる「エウセベイス(敬虔な者たち)」に照らして明らかである。すなわち、アイトナ(エトナ)山の火と燃える溶岩がカタナの町に向かって流れ出したとき、彼ら兄弟は金銀にはまったく目もくれずに、ひとりは母親を、もうひとりは父親を担いで逃げようとした。だが、彼らの逃げ足は難儀で遅く、火炎を噴く溶岩は迫ってあわや彼らを一呑みという勢いであった。それでも彼らは両親を投げ出さなかったので、伝承によれば、溶岩の流れが二股に分かれて、彼ら若者たちにも、その両親にも痛い目ひとつ遭わせることなく脇を通り過ぎて行ってしまったという。

ストラボン『地誌』6.2.3

この地[カタナイア]の、アンピノモスとアナピアの敬虔についての話が、何度も語られてきた。彼らは両親を肩に背負って運び、迫り来る死から救ったのである。

ウァレリウス・マクシムス『著名者言行録』5.4.ext.4

さらに有名なのは、クレオスとビトンの兄弟と、アンピノモスとアナピアスの兄弟である。前者はユノ女神の祭礼に参加するために、母親を[自分たちで]運んだ3。後者は火の中を、父と母を肩に担いで運んだ。だがアンピノモスとアナピアスのどちらも、両親の命のために死ぬことはなかったと言い伝えられている。

逸名著者の詩『アエトナ』4

Two noble sons, Amphinomus and his brother, gallantly facing an equal task, when fire now roared in homes hard by, saw how their lame father and their mother had sunk down (alas!) in the weariness of age upon the threshold.​ Forbear, ye avaricious throng, to lift the spoils ye love! For them a mother and a father are the only wealth: this is the spoil they will snatch from the burning. They hasten to escape through the heart of the fire, which grants safe-conduct unasked. O sense of loving duty, greatest of all goods, justly deemed the surest salvation for man among the virtues! The flames held it shame to touch those duteous youths and retired wherever they turned their steps. Blessed is that day: guiltless is that land. Cruel burnings reign to right and left. Flames slant aside as Amphinomus rushes among them and with him his brother in triumph: both hold out safely under the burden which affection laid on them. There — round the couple — the greedy fire restrains itself. Unhurt they go free at last, taking with them their gods in safety. To them the lays of bards do homage: to them under an illustrious name has Ditis allotted a place apart. No mean destiny touches the sacred youths: their lot is a dwelling free from care, and the rightful rewards of the faithful.

この話は古代のコインにも刻まれている。

Herennia coins - ANCIENT ROMAN COIN - OFFICIAL WEBSITE

分析

The Moral-Class Bookの記述に一番近いのはパウサニアスの記述である。ただし、パウサニアスの記述では、兄弟の名前は書かれていない。ストラボンの記述には、兄弟が無事だったという記述が含まれていない。「ひどく無知であるが良い心を持った人たち」には、奇跡というものに対する若干のネガティブなニュアンスがある。

参考文献

現代語訳 童蒙おしえ草 ひびのおしえ、福沢諭吉著 岩崎弘訳、角川文庫、2006.

ギリシア案内記(下)、パウサニウス著 馬場恵二訳、岩波書店、1992.

The moral class-book : Chambers, W : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

童蒙をしへ草. 初編. 一 | 慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクションDigital Collections of Keio University Libraries

Strabo, Geography, Book 6, chapter 2, section 3

Strabo, Geography, Book 6, chapter 2, section 3

Collections Online | British Museum

LacusCurtius • Aetna

Valerius Maximus, Facta et Dicta Memorabilia, LIBER QVINTVS, chapter 4(ext), section 4

Herodotus, The Histories, Book 1, chapter 31


  1. 折角なので比較のために、福沢諭吉の翻訳ではなく、チェンバースのテキストから翻訳した拙訳を載せる。原文は参考文献のものを使用した。
  2. パウサニアスは岩波の馬場恵二訳 (下巻, p.281)。ストラボンとウァレリウス・マクシムスの訳は拙訳。原文は参考文献のものを使用した。
  3. ヘロドトス『歴史』1.31.
  4. Minor Latin Poets vol. 1, Loeb Classical Library, 1934, pp. 351‑419の訳を載せる。以下の注釈62が非常に参考になった。
    "Claudian, Carmina Minora, XVII (L), has an elegiac poem on the statues of the two brothers, Amphinomus and Anapius at Catina now Catania. For allusions to their pietas cf. Strabo, VI.2.3 (C. 269), who calls the second brother Anapias; Sen. Benef. III.37.2; Martial, VII.24.5; Sil. Ital. XIV.197. Hyginus, Fab. 254, gives them different names. Their heads appear on both Sicilian and Roman coins, e.g. Head, Hist. Num. 117; Brit. Mus. Cat."

イシドルス『語源』翻訳 IX. 6. 1-6『島について』(イギリス、アイルランド)

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。Oroz Reta J. and Marcos Casqueroの西訳とIsidoro di Siviglia, Etimologie o origini, primo volume, a cura di Angelo Calastro Canale, UTET, 2004.の伊訳も参照した。

プリニウス『博物誌』にもこの箇所の島についての記述がある。

Pliny the Elder, The Natural History, BOOK IV. AN ACCOUNT OF COUNTRIES, NATIONS, SEAS, TOWNS, HAVENS, MOUNTAINS, RIVERS, DISTANCES, AND PEOPLES WHO NOW EXIST OR FORMERLY EXISTED., CHAP. 30. (16.)—BRITANNIA.

Pliny the Elder, The Natural History, BOOK II. AN ACCOUNT OF THE WORLD AND THE ELEMENTS., CHAP. 77. (75.)—WHERE THE DAYS ARE THE LONGEST AND WHERE THE SHORTEST.

島などの現代名は括弧で表記した。

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

翻訳

島(insula)は海にある(in salo)ことに由来してそのように呼ばれる1。その中でも、多くの昔の人々が巧みに熱意を持って探究した、非常に有名で重要な島々は注目されるべきである。

ブリタニア(イギリス)は間にある海によって、全大陸から切り離された島である。ブリタニアという名前はその[住んでいる]民族の名前2から取られた。この島はガリア(フランス)に向かい合って、ヒスパニア(スペイン)の方を向いて位置している。その周囲は4875マイルである。この島には多くの大きな川や温泉があり、豊富で様々な大量の鉱物がある。ここは褐炭と真珠に満ちている。

タナトス島(Tanatos isnula, サネット島)は、狭い入江によってブリタニアから隔てられている、ガリア海峡(ドーバー海峡)にある海の島である。この島には穀物のための平地や肥沃な土壌がある。そしてタナトスという名前は蛇の死に因んでそのように呼ばれる3。それは、この土地には蛇はいないのだが、ここ土がどんな土地に運ばれたとしても、直ちに[運び込まれた土地の]蛇の命を奪うからである。

最果てのトゥーレ(Thyle ultima, Θούλη)とはブリタニアを超えた北西の地帯の内にある海の島である。sol(太陽)に由来してそのような名前なのである4。それはこの島では、太陽は夏至をなし、この島を超えるといかなる日の光もないからである5。それゆえ、この島を取り巻く海は動きがなく、凍っているのである。

オークニー諸島(Orcades)はブリタニアの中に位置する、海にある33の島々である。その内の20の島々は無人島であり、13の島々は人が住んでいる。

ヒベルニアとも呼ばれるスコティア(アイルランド)はブリタニアの隣の島であり、土地の広さではブリタニアより狭いが、位置のおかげでより肥沃である。この島は北西から北へと伸びている。 より先の部分6イベリア半島カンタブリア7へと伸びている。それゆえにヒベルニアと呼ばれる8。スコティア(Scotia)はスコット人(Scoti)が移住したことからそのように呼ばれる9。この島にはヘビは全くおらず、鳥はほとんどおらず、蜂はまったくいない10。それゆえ、もし誰かがこの土地から持ってきた塵や小石を他の土地の蜜蜂の巣へばら撒くならば、蜜蜂の群れは巣を捨てるだろう。


  1. この語源説明*en-sal-o- ‘what is in the salt(y)’ > ‘in the sea’ > ‘island’ は音声に限れば理論的には可能である。語源は不明で、何らかの言語からの借用語かもしれない (Etymological Dictionary of Latin, p. 306)。

  2. ブリトン人のこと。

  3. θάνατος (タナトス): 死.

  4. トゥーレの語源は説明されず、ultima(最果ての)の方が説明されている (Canale, II p.204)。

  5. Barney et al. 注7, p.294.
    “The sense is, or should be, that the term Ultima, "farthest,” describes the limit of hte sun’s reach at the Arctic Circle at hte winter solstice; Thyle is dark all winter."

  6. 大陸側から見てより先ということ。地図では南端に当たる。

  7. カンタブリア海 - Wikipedia

  8. HiberniaをHiberiaとの語呂合わせで説明している。

  9. Barney et al. 注8, p.294
    “In early medieval writings the inhabitants of Ireland were called Scotti, and those of Scotland called Picts - but cf. IX. ii. 103.”

  10. ギラルドゥス・カンブレンシスは『アイルランド地誌』1.3でイシドルスの記述の誤りを指摘している。(有光秀行 訳)
    「この島は緑地・牧草地、蜜と乳、ワインにあふれているが、ブドウ畑についてはそうではない。しかし、ベーダは、いろいろこの島のことを褒めている中で、ここにブドウ畑があると述べている。またソリヌスとイシドルスはミツバチがいないという。しかし、三人が許してくれたらと思って言うのだが、彼らはもっとよく観察していたら逆に書いたであろう。つまり、アイルランドにはブドウ畑はないが、ミツバチはいる。」

イシドルス『語源』翻訳 III. 28-38『天文学の理論について』『宇宙とその名称について』ほか

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。Oroz Reta J. and Marcos Casqueroの西訳とIsidoro di Siviglia, Etimologie o origini, primo volume, a cura di Angelo Calastro Canale, UTET, 2004.の伊訳も参照した。

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

翻訳

28.『天文学の理論について』

天文学の理論は非常に多くの種類[の問題]からなる。つまり、天文学の理論は次のことを定める。宇宙とは何であるか、天とは何であるか、天球の位置と運行とは何であるか、天と極の軸とは何であるか、天の地帯とは何であるか、太陽と月と星の運行とは何であるか、等々である。

29. 『宇宙とその名称について』

宇宙(mundus)とは天と地と海と星の全体からなるものである。この総体が宇宙と呼ばれるのは常に動いている(motus)からである。なぜならこれら宇宙の構成要素にはいかなる休息も許されてはいないからである。

30. 『宇宙の形について』

宇宙の形は以下のように記述される。宇宙は北の地帯が高くなっている分、南の地帯が低くなっている。いわば、宇宙の頭と顔であるのは東の地帯であり1、最も高い(ultimus)のが北の地帯である。

31. 『天とその名称について』

哲学者たちは天(caelum)とは球形で2回転し、輝くものであると言っている。そして、caelumという名前で呼ばれるのは、あたかも彫刻された(caelatum)容器のように、星の刻印があるからである。つまり、神は天を、輝く光によって装飾し、 太陽と月の輝きによって満たし、煌めく星からなる輝く星座で飾ったのであった。

caelumギリシア語ではὁρᾶσθαι、つまり、見ることに由来してοὐρανός(ウラノス)と呼ばれる。なぜなら、大気は見通すことができるほどに透明であり、非常に澄んでいるからである。

32. 『天球の位置について』

天球は球形をしている。その中心にある地球はすべての方向で等しく限定されている。天球には始点も終点もないと言われている。なぜなら球のように球形であるので、どこから始まりどこで終わるかということは、簡単には把握されないからである。

哲学者たちは宇宙にある七つの天3、つまり調和した運動をなす惑星を導入した。そして彼らはすべての運動がこれら惑星の軌道と結び付いていると述べている。これらの軌道は互いに結びついており、あたかも互いに挿入されているようであると彼らは考える。また、逆向きに回り、他の天球に対する反対方向の運動によって動かされていると考えている。

33.『天球の運動について』

天球の運動は二つの極(axis)の周りで起こる4。一方は北極である。この極は決して沈まず、ボレウス5と呼ばれる。他方は南極である。この極は決して見ることができず6、アウストロノティウスと呼ばれる。これら二つの極の周りで天球は運動するのだと言われている。そしてこの運動に伴い、天球に固定された星々は東から西へ円運動し、極に隣接する北側の運行においては、より短い円運動をなすと言われている。

34.『天球の運行について』

天球は東から西へ昼夜24時間の間に一回の回転をする。この期間内に太陽は自分も回転しながら、大地(地球)の上と下への運行を終わらせるのである。

35. 『天の速さについて』

天球は非常に速く運行するので、この急激な運行と反対方向に、運行を遅らせる星々が動いていなかったとしたら、宇宙は崩壊していただろう。

36. 『天の軸について』

軸(axis)とは天球の中央を貫いて伸びている直線のことである。axis(軸、車軸)と呼ばれるのは球がそれに沿って車輪のように回転するから、あるいは大熊座(plaustrum, 荷車)がそこにあるからである。

37. 『天の極について』

極(polus)とは軸の周りを動いている円のことである。その一方は北極である。この極は決して沈まず、ボレウスと呼ばれる。他方は南極である。この極は決して見ることができず、アウストロノティウスと呼ばれる。そして、polusと呼ばれるのは、荷車の用法でいう軸の周りの円であるからである。polusはpolire(磨くこと)に由来してそのように呼ばれる7。ボレウスは常に見える一方で、アウストロノティウスは決して見えない。これは天の右側8の方がより高く、南側が押さえつけられているからである。

38. 『天の蝶番について』

天の蝶番(cardo)とは軸の両端のことである。cardoと呼ばれるのはこれの周りで天が回転する、あるいは蝶番が心臓(cor)のように回転するからである。


  1. ウェルギリウス『農耕詩』1. 240. (小川正廣 訳)
    「天球は、スキュティアとリパエイの峰々に向かって険しく昇っていき、南のリュビアの土地のほうに低く傾いて沈んでいる。」
  2. cf. アリストレス『天について』286b10 (池田康男 訳)。
    「また、天は球形でなければならない。なぜなら、これは天の本質に最もふさわしい形で、本性上、第一の形だからである。」
  3. 水星、金星、火星、木星土星、太陽、月の七つ。
  4. axisは基本的に軸と訳しているが、ここは文脈上の意味やIII-37との整合性を考慮して極と訳すことにする。III-37の説明はここでの説明と部分的に同一であるにも関わらず、polus(極)が主題になっている。
  5. ギリシア語のボレアス(Βορέας)は北風(の神)を意味する。ローマ神話では南風(の神)はアウステル。
  6. ウェルギリウス『農耕詩』1. 243. (小川正廣 訳, 括弧は記事作者による)
    「こちら側の天極(北極)はつねにわれらの頭上にあるが、あちらの極(南極)は、われらの足下で、暗欝なステュクス川と深淵の死霊たちが眺めている。」
  7. ラテン語のpolusはギリシア語のπόλος(軸、極)に由来する。πόλοςはπέλω (become)の語根と関連する (Canale, p.322)。
    ここでpolusがpolireと関連づけられている理由はよくわからない。
  8. 北側のこと。天球上を周る太陽から見ると、北は右であり、南は左である。

イシドルス『語源』翻訳 III. 24-27 『天文学という名称について』『天文学の創始者について』『天文学の創設者について』『天文学と占星術の相違について』

はじめに

テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。Oroz Reta J. and Marcos Casqueroの西訳とIsidoro di Siviglia, Etimologie o origini, primo volume, a cura di Angelo Calastro Canale, UTET, 2004.の伊訳も参照した。

日本語訳には以下のものがある。

ヘルモゲネスを探して : イシドロス『語彙集』抄

内容が理解しやすいよう適宜改行を行なった。

翻訳

24. 『天文学という名称について』

天文学とは星に関する法則[についての学科]である1。この学科は理性による探究によって、それ自体に関してと大地との関連での、天体の運行と星の形状と位置を概観するのである。

25. 『天文学創始者について』

最初にエジプト人天文学を創始した。一方でカルデア人が初めて天文学や、誕生時の天球の配置に関する観察について教えた。歴史家であるヨセフスはアブラハムエジプト人天文学を教えたのだと言っている2ギリシア人はアトラス3が初めて考案したのだと言っている。そのことから[アトラスが]天球を支えていたと言われているのである。創始者が誰であったとしても、その者は、季節の交代、一定で限定された星の運行、[天体]相互の定まった距離[についての観察]を通じて、天における運動と魂における理性に駆り立てられ、何らかの測定と数について考察したのである。定義し、区分することでそれらを秩序づけた者が天文学を考案したのである。

26. 『天文学の創設者について』

[ギリシア語とラテン語の]両方の言語で、天文学についての様々な書物が書かれている。その中でもとりわけ、ギリシア人はアレクサンドレイアのプトレマイオス王が卓越していると考えている4。彼は王名表をも制定した。この王名表によって天体の運行を知ることができる。

27. 『天文学占星術の相違について』

天文学(Astronomia)と占星術(Astrologia)の間には相違が存在する。天文学には、天の回転、上昇、下降と天体の運動についてが含まれている。それゆえastronomiaと呼ばれているのである5

占星術の一部は自然に関するものであり、一部は迷信的なものである。[占星術が]自然に関するものであるのは太陽や月の運行や、周期的な星の配置について論じる限りである。迷信的であるのは星によって予言しようとする占星術師が[その術に]従うときである。さらに、各々の魂あるいは身体の部分に対して十二宮を割り当て、星の運行によって、人間の誕生や気質を予言しようとする時もそうである。


  1. イシドルス『語源』翻訳 I. 1,2『学芸と技術について』『自由七科について』 - Asinus's blog
  2. ヨセフス『ユダヤ古代史』(秦剛平訳、括弧は記事作者がつけた)
    「[アブラハムは]彼ら(エジプト人)に算術をすすんで教え、また天文学を伝えた。エジプト人は、アブラハムが来るまではこれらの学問を知らなかったのである。こうしてこれらの学問はカルデヤ人のもとからエジプトへ入り、そこからギリシア人に伝わったのである。」
  3. ギリシア神話でティタン神族の一人。ティタノマキアでオリュンポス神族に敗れ、ゼウスから罰として極西の地で天空を支える役目を科せられた。cf. アウグスティヌス神の国』18.8
  4. Berney et al. 注25 (p.99)
    "Isidore is confusing Claudius Ptolemy (second century CE) with the Ptolemys who ruled Egypt."
  5. ἀστρονομία: ἄστρον(星) + νόμος (法則).

イシドルス『語源』翻訳 VI. 5-7 『初めてローマに書物をもたらした者について』『我々の間で図書館を設立した者について』『誰が多くの著作を物したか』

はじめに テキストはOroz Reta J. and Marcos Casquero, M.-A (eds), Etymologias: Edition Bilingüe, Madrid, 1983. を使用した。Berney, Lewis, Beach and Berghof, The etymologies of isidore of seville, Camblidge University Press, 2006の英訳を参照した。Oroz Reta J. and Marcos Casqueroの西訳とIsidoro di Siviglia, Etimologie o origini, primo volume, a cura di Angelo Calastro Canale, UTET, 2004.の伊訳も参照した。

歴史的な内容についてはThe Oxford Classical Dictionary, 4th editionと西洋古典学事典を参照した。

脚注は不完全であり、改定予定である。

翻訳

5.『初めてローマに書物をもたらした者について』

アエミリウス・パウル1マケドニア王国のペルセウスを打ち破った時に初めて大量の書物をローマにもたらした2。次いでルクッルス3がポントスから戦利品として書物をもたらした4。その後にカエサルがウァッロ5に最大の図書館を建設するという任務を与えた。ポッリオが初めてローマにギリシア語著作とラテン語著作の両方の図書館を公共開放した6。その広間には著者たちの彫像が置かれていた。彼はこの図書館を戦利品で得た利益によって、この上なく豪華に建てた。

6. 『我々の間で図書館を設立した者について』

我々[キリスト教徒]の間では殉教者パンフィルス7も図書館を設立した。彼の生涯についてはカエサリアのエウセビオスが記録した8。パンフィルスが初めて、ペイシストラトスに匹敵するほどに、聖なる図書館に対して熱意を注いだ。 それは彼の図書館には約三万巻の書物があったからである。

そして、ヒエロニムスとゲンナディウス9は計画的に世界中で探し回り、聖なる著作家の書物を収集した。彼らの調査の結果は一巻の目録にまとめられている。

7.『誰が多くの著作を物したか』

ラテン語圏ではマルクス・テレンティウス・ウァッロが数え切れないほどの著作を物した10

ギリシア語圏ではカルケンテロス11が非常に賞賛されている。なぜなら彼は非常に多くの著作を物したので、我々の誰もが自分の手で[彼の全著作を]書き写すことがほとんど不可能なほどなのである。

ギリシア語圏の我々キリスト教徒については、オリゲネスがギリシア語著者だけではなくラテン語著者たちをも、著作数で上回っている。ヒエロニムスは彼の著作を六千巻読んだと証言している。

アウグスティヌスは才能あるいは学識によって、これらすべての著作家たちの成果を上回っていた。彼が物した著作は非常に多いので、誰も、幾昼夜かけても彼の著作を書き写しきることができないだけでなく、読み切ることすらできないのである。


  1. Lucius Aemilius Paullus Macedonicus (228?-160bc).

  2. ピュドナの戦い(168bc)での勝利のこと。

  3. Lucius Licinius Lucullus (117?-56bc).

  4. ミトリダテス6世との戦争のこと。

  5. Marcus Terentius Varro (116-27bc).

  6. Gaius Asinius Pollio (76bc-4/5ad).

  7. エウセビオスの師。

  8. 史料翻訳:カエサレアのエウセビオス著 『パレスチナ殉教録』
    https://researchmap.jp/multidatabases/multidatabase_contents/download/229794/fd13537b03614b98a494984928e80a8f/2444?col_no=2&frame_id=519284

  9. Gennadius Massiliensis (Gennadius of Massilia). De Viris IIIustiribus(著名者列伝)の著者。ヒエロニムスとイシドルスにも同名の著書がある。

  10. 彼が78歳になったときには490巻の書物を著していたと伝えられる(Gell. 3.10.17)。

  11. Didymos Chalkenteros. アレクサンドリアの文献学者。その勤勉さゆえにKhalkenteros(χαλκέντερος, 青銅のはらわたを持つ男)と渾名された。